秋葉三尺坊大権現

 常磐殿内に祭祀されている秋葉三尺坊大権現の主尊は、小さな尊像です。しかし、真っ黒な体躯に憤怒相で真っ赤な焔光背、そして白狐に左足を乗せた威風堂々たるお姿は、大きな像に一歩もひけをとらない威厳と尊厳を漂わせています。
 三尺坊大権現の御利益は、第一に失火と延焼と一切の火難を除いてくださること、第二に病苦・災難と一切の苦患を除いてくださること、第三に生業と心願と一切の満足を与えてくがさることにあります。そして交通安全、家内安全など十三の大願力も有待ちといわれます、
 秋葉三尺坊大権現が、菩提寺に祭祀されましたのは、明治十四年〈一八八一〉のことでした。徳川幕府が江戸に開かれた時代から三尺坊大権現が鳳仙寺に祭祀されるまでの期間、桐生は度々の大火に見舞われ、領民は塗炭の苦しみを味わい続けました。桐生市史をびもといてみましても、実に六十回近くの火災があります。
 このように桐生には火災が多かったものですから、鳳仙寺で「桐生の人々の大盗消除・家内安全ほかの請願成就」を願って、前記の年に静岡県の秋葉総本殿(秋葉山秋葉寺)から奉安されたのです。
 三尺坊大権現は、およそ一三〇〇年前に信州(長野県)で誕生された実在の僧侶です。七歳で出家され、越後(新潟県)で修行された後に、諸国を巡って修行を重ねました。そして不動明王の行法を
修め、天狗のように自在に飛行する神通力を得たといいます。
 昔から火防の御利益で万人の信仰を得た三尺坊大権現は、観音様の化身といわれて、近世以降から東海地方、相模地方、江戸府内で特に厚い信心をうけ、各地に講中が作られました。特に五代将軍・徳川綱吉公が崇拝したことから、庶民の間に信仰が爆発的に広まったといわれます。
 このように上は将軍から、下は庶民に至るまでの広い層に信仰されてきた、三尺坊大権現のご分身が、わたしたちの菩提寺に奉安されているということは、火防の安心拝受とともに檀家一同の誇りといえましょう。
 《穆山瑾英大和尚と鳳仙寺秋葉三尺坊大祭》
 鳳仙寺の秋葉三尺坊大権現のご祈祷は、穆山瑾英大和尚が静岡県袋井市の秋葉総本殿可睡斎の住職をお勤めになった時に総本殿から鳳仙寺へ奉安されたものです。

憤怒相で真っ黒な体躯、真っ赤な焔後背、白狐に左足を乗せて立つお姿がが印象的な秋葉三尺坊のご本尊。

 

        江戸から明治 桐生を苦しめた大災記録 桐生市史年表より


元文5年〈1740〉新町4丁目火事
延享3年〈1746〉新町2丁目火事・20戸焼失
宝暦6年(1765〉下新田村火事・23戸焼失
宝暦12年〈1762」延命寺焼失
明和元年〈1764〉如来堂村火事
明和3年(」矢六)下新田材及び浅部材火事
安永3年〈1774〉新町火事
安永6年〈1777〉新宿村火事及び上久方村火事・18戸焼失
安永8年(1779)観音寺焼失
天明8年(1788)新町三町目火事
寛政4年〈1892〉新町二下目及び下久方村火事、今泉村火事68戸焼失
寛政5年〈1793〉新町火事
寛政8年(1796)新町四丁目火事・32戸焼失
寛致9年(1797)新町四丁目及び新町六丁目火事・81戸焼失
寛政10年〈1798)新町二丁目火事・30戸焼失
寛政11年〈1799)新町一丁目火事
享和2年(1802〉本水村火事・14戸焼失
享和3年〈1803〉新町三丁目火事
文化4年〈1807〉如来堂村火事・62戸焼失
文化8年〈1811〉上久方村及び如来堂村火事
文化11年(1814)上久方村火事
文化12年〈1815)浅部材及び上菱村火事25戸焼失
文化14年(1817)二渡村及び小友村火事・13戸焼失
文政2年(1819)天王宿村及び堤村山火本
文政6年〈1823〉西方寺焼失.新宿村及び天王宿村火事
文政7年(1824)二渡村火事
天保8年〈1837)下広沢村火事
天保13年〈1842〉妙音寺及び螺蛙堂焼失
天保14年〈1843)東小倉村及び天王宿村火事、下久方村・下菱村・下小友村火事(計160戸焼失)
弘化元年〈1844)境野村火事
弘化2年〈1845〉境野村火事
嘉永元年〈1848)新町四丁目及び新町六丁目火事
嘉永2年〈1849)下新田村火事
嘉永4年(1851〉新宿村.11戸焼失.東小食村火事.新町五丁目火事・78戸焼失
安政6年〈1859)大蔵院焼失
文久2年(1862)新町四丁目および天王宿村火事
元治元年〈1864〉新宿村大火・350戸焼失
慶応2年〈1866)新町六丁目火事
明治元年〈1868)新町五丁目火事
明治3年〈1870)下久方村火事
明治8年(1875)新町一丁目及び下久方村火事117戸焼失
明治13年(1880〉新町三丁目火事・70戸焼失

 

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