鶴松山 高園寺


当寺の開創は,応永年間(1394年頃),開山は永平寺道元禅師の第七代玄翁和尚の直弟子で松堂長源和尚による.そして,天文2年(1533年頃)になって七堂伽藍が完成する.その後,天正年間(1573年頃)すべて焼失する.
建物の再建は寛永年間(1624年頃)鳳仙寺七世義拈牛把禅師さまによって実現する.所謂中興開山であり初代住職とされており,以来現住にて24代となる.そして,また享保年間(1716年頃)火災にて全焼.元文年間(1736年頃)に再建.それから間もない寛保2年(1742年)今度は水害にあうが,また再建.その後,またも天保6年(1835年頃)火災に遭い,18代住職が資金調達のため寺の裏山の砥石発掘許可を幕府に願い出たことが記録されている.徳川3代将軍家光公より寺領九石二斗を賜る.
昭和7年麦わら屋根だった本堂の大改修,昭和37年庫裡の改築,鐘楼堂を改修し戦時中に提供した梵鐘を再鋳造し,さらには明治年間に倒壊した山門を昭和63年秋に再建して,現在に至る.開基は小曽根家と一応,なっている.
伝説,山田郡誌に宇治川の先陣にて有名なる池月の名馬は高沢の産であり高園寺の池で此の馬を洗ったと記してある.これすなわち後に,桐生氏の始祖.藤原綱元(小太郎)が源頼朝に献上せし池月の名馬なりと.平成6年に入り此の池の周辺を高沢の名石をもって大改修し,景観をまた一新した.梅田カルタに「名馬産む池月の池高園寺」と詠まれている.寺のしたにある「たかぞの保育園」は昭和48年に地元の要望によって開設された社会福祉施設であり,可愛い園児達の歓声が何時も聞こえてくる.
また,近年,寺の北西の裏山に大納骨堂が建立された.三界万霊塔の標柱を屋上に掲げた白壁の建物である.緑薄き諸霊・墓地をもたない方のお骨を納めるところで,安置されたお骨は,永代にわたりお寺によって供養される. さらに建物内には立像の観音様がおまつりされており,諸霊の安らかなることを念じている.この観音様はそとからのお参りもでき,延命の観音様として親しまれている.なお,建立の趣旨からどなたでもご利用できる.

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