桂林山 久昌寺


 この地 昔梅原館に桐生城主住みし頃,お茶水を取りし地という.その後寛永年間,鳳仙寺7世8世と称す,応山牛喚大和尚の時 開創せるものなりと.天保14年3月荒神火事ありしも風上なりしため,焼失を免れたりと,当寺も由緒書にあるが如く,寛永年間応山牛喚大和尚の開山なって草創された寺である.然しこの寺も,何の理由か古記録の類がなくて,わずかに過去帳の裏表紙に記されている,荒神大火の記録天保14年だけであとはほとんど何もない.ただ寺の所伝の中にこの地は 嘗て梅原館が桐生氏によって使用されていた頃ここに浅井戸があり,その水質がよかったために,その水が館のお茶水に使われていたという話である.その井戸はもう埋められてしまったが,明治から大正の頃までは残っていた.
 桐生城のお茶水は,桐生城の東南口である岡平の登山口のすぐ近くに,今でも水が湧き出てて付近の民家で使用されているが,ここから梅原館まで運ぶのは大変だから館の近くで水が湧き出ているのでお茶の水に使用したかもしれないのである.
 然し桐生氏は滅亡し,由良氏もまたこの地より牛久に遷されてこのお茶の水も不用になったので,そのあとの井戸周辺空き地が応山和尚に目をつけられて一寺建立となった.無実の下手人金八さんを偲ぶ火あぶり地蔵尊と,台石が六地蔵尊の隣にまつられてある.大正年間本堂の脇に不動堂が建立になり,これに不動明王を安置したが,これは荒神火事で焼失した神恵寺から頼まれて安置したものであった.この頃,久昌寺に正式に譲られたものである.昭和45年この不動堂に修理を加え,本堂に改め不動明王を改めて本尊に定め,従来の聖観世音菩薩も脇仏として安置することになったのである.
毎年1月8日不動尊護摩法会大祭
七福神めぐり  恵比寿
久昌寺への道
 恵比須神を祀る桂林山久昌寺は、曹洞宗では大変に珍しい『不動明王をご本尊』とするお寺で、所在地は、天神町三丁目一五−一二です。
 寺域は、鎌倉時代初頭(一一九二〜)から室町時代の天正期(〜一五七三ころ)にかけて、桐生氏のお茶の水を汲む井戸があった所です。(古老の話によりますと、大正時代までは確かにあったと言います。)
 一説には、桐生家最高の領主と称えられた九代・大炊介公の茶寮の井戸とも言われています。惜しいかな、そのお茶の水の井戸は現存していませんが、その跡は現在も保存されていて、その面 影を伝えています。
 また、境内には、桐生屈指の大火と言われている『荒神の大火(天保十四年・一八四三年)』にかかわる『金八地蔵伝説』の息づく石造地蔵菩薩像も、旧・六地蔵尊の隣りに祀られています。(この伝説は後述します。)
 この歴史資料の多く保存される第五番札所・恵比須の寺・久昌寺へ至るための、福禄寿の寺・青蓮寺からの道順は、次のようになります。
 青蓮寺の参拝が済みましたら、再び市立北中学校前の道路(俗称・山の手通 り)へ出ます。その道路を北進し、初めての信号機で左折しますと、道路は主要地方道(県道)桐生・田沼線に変わります。
 主要地方道へ入りましたら、東武自動車KKの天神町終点の様子を左右に眺めながら、そのまま梅田町方面 へと向かうわけです。青蓮寺から久昌寺への道程は、およそ800メートルです。
 通行途中には、辺り一帯を『おんだし』の地名にしたという愛宕山が西側(左手)に見られ、その山麓には、キリスト教徒の眠る墓地も見られます。さらには、地元の人達が「ぼんぜん山」と呼ぶ山並みが愛宕山から連なっています。「ぼんぜん山」の山頂には、梵天が掲げられますので、『梵天山』が次第になまって、現在の『ぼんぜん山』という呼称になったのかも知れません。
 ぼんぜん山に見守られながらなおも歩を進めますと、家々が軒を並べるようになって、昔の面 影をまったく失ってしまった通称『泣き田圃』を通過します。『泣き田圃』とは、昔は、そのものずばりの表現だった所です。真冬のこの辺りは家が一軒もなく、「ぼんぜん山」から吹きおろす寒風が、あたり一面 の田圃の上を吹き荒び、学校へ通う子供達を凍えさせ震えあがらせたものです。そのために、小さい子供達は時々「泣きっ面 」にさせられたものでした。現在の様子からは当時の様子を偲ぶべくもなく、現状は「泣き田圃」を昔話の世界へ追いやってしまいました。
 その「泣き田圃」から桐生外語学院校舎、重足寺跡、天神町郵便局、鳳仙寺案内柱(ロウソクの形をしている。)などを見ながら進んで行きますと、まもなく右側に白壁の塀が見えて来ます。そこが、目指す恵比須の寺・久昌寺です。
 塀の上には『桂林山久昌寺』と筆太に書かれた大看板が、どっしりと姿を見せていますので、容易にそれと分かるはずです。
   恵比須神は本堂前に  参拝目的の恵比須神は、境内に入るとすぐ左側に見られる本堂の前に祀られています。ちょうど、本堂と向かい合った位 置に小堂が見られますが、その小堂内に安置されている木彫の立像が、お目あての恵比須神です。
 久昌寺の恵比須神は、釣竿を持った右手を高々と挙げ、左脇には大きなタイ(鯛)を抱え込んでいる立像です。
 あたかも大きなタイを釣り上げられ、意気揚々と戻られた恵比須様が、浜に出迎えた人々に右手を挙げて応えている----- そんな光景を想起させる像容です。

     恵比須神は商売繁盛の神
 恵比須神は、商売繁盛の神として昔から人々に広く信仰されてきた福神で、兵庫県西宮市の西宮神社祭神として世に知られています。
 像形は、狩衣(かりぎぬ)に烏帽子(えぼし)をつけ、右手に釣竿、左手にタイを抱えた座像神が一般 的です。ところが、久昌寺の恵比須神像は、先述のとおり立像です。それだけに像形そのものが珍しいのですが、さらに笑顔で右手を高々と挙げておられるその姿形からは、私たち参拝者に積極的に御利益を与えてくださる福の神----- そんな気持ちを起こさせてくださいます。心して祈願をしたいものです。

   スタンプは庫裡の入り口近くで
 参拝がすみましたら、記念スタンプの押印ということになりましょう。
 恵比須神参拝記念のスタンプは、庫裡の入り口近くの箱の中に納められています。このスタンプは、押印料(百円)を納めて参拝者が自身で押印することになっています。丁寧に押印をして、恵比須神参拝のより良い記念にしてください。
 また、庫裡には七福神手拭い、開運しゃもじ、念珠、御守袋など、たくさんの参拝記念品が整えられていますので、ぜひ立ち寄ってみたいものです。
   ぜひ久昌寺域の拝観を  恵比須神の参拝後は、多少の時間をかけても、久昌寺域の拝観を行いたいものです。ふだん見過ごしているあれこれが、結構、皆さんの目に入り参考になることと思います。
 そこで、久昌寺域拝観のための手引きを兼ねて、久昌寺の歴史などに触れながら、次にいくつかの説明を加えてみることにましょう。

  開創は寛永年間
    久昌寺は、寛永年間(一六二四〜一六四三年)に、桐生山鳳仙寺八世・応山牛喚大和尚が開創された寺院です。寺歴はたいへん豊富で、すでに三百五十余年を経過しています。
 すぐ西側の牛窪付近から出火した天保十四年(一八四三)の大火の際は、幸い寺域が風上にあったことから伽藍の焼失を免れました。そして、その後も災害にはいっさい逢うことなく、今日を迎えています。天保の大火は『荒神の大火』ともいわれる、桐生屈指の大火災で、この様子が久昌寺過去帳の裏表紙に、次の用に書き残されています。
 天保十四年卯三月十二日朝四ツ時より当所牛窪山より出火、荒神山へ移り、荒神堂焼失、    町屋、押出、中里、下菱、小友、小俣入町屋迄而都合八ケ村類焼、当所寺院神恵寺、住足寺、宗円寺、普門寺、観音堂、文昌寺堂宮類不知数、町屋にて金造親子共に焼死す。
 この裏書きによって荒神の大火の出火時刻、出火場所、焼失区域、類焼寺院・堂宇、焼死者までが伝えられるという、後世への貴重な歴史資料となっています。
 しかし、どういう理由からか、久昌寺には他の古記録がいっさい残されていないという不思議さが見られます。このことは、久昌寺の長い歴史の流れの中での苦難の時代が、予想以上に多くあったことを物語っていると受け止めるべきなのでしょうか。それとも記録にとどめられてはいない災害に遭遇していたと解釈すべきなのでしょうか。
 いずれにしましても、古記録いっさいが消滅のため、久昌寺の多くの歴史を「○○したと伝えられています。」という表現にしざるを得ないのが実状です。(本寺・鳳仙寺の記録に、牛喚大和尚が開山であることを示す記録が残されていますので、開山名は断定することができます。)
 古記録が消滅してしまっているとはいいましても、この久昌寺の所在する位 置は、桐生家、由良家の統治時代の一等地です。このような素晴らしい位置に、どういう理由で寺院建立がなされたのかと、現在もなお、いぶかる人が大勢いますが、このことは次の久昌寺所伝が、立派に説き明かしてくれています。
 嘗て梅原館が桐生氏居館でありし頃、此の地に浅井戸あり。その水質良質のため、館の    お茶の水として大いに使用された。
 桐生城お茶の水は、桐生城の東南口の岡平の桐生城趾登山口近くにあり、現在も湧水し    ているが、そこからの湧水を梅原館まで運ぶのは難儀なため、館の近くの此の地の浅井戸の水を利用したものと思われる。
 然し、桐生氏が滅亡し、由良氏も又、この地より常陸牛久に遷されるに及んで、此の地のお茶の水の井戸も不要となった。その空き地に目をつけられた応山大和尚が、一寺建立を一念発起されたのである。

   宗派は曹洞宗
    久昌寺の宗派は曹洞宗です。曹洞宗は、高祖・道元禅師、太祖・瑩山禅師を両祖と仰ぎ帰依している宗派です。その両祖の教えに叶った信仰生活を確立し、 さらに 『人間の尊厳を保持しながら、無常の世を無常のまま生きる座禅の生活にこそ、その極意がある』というお釈迦様の教えを正しく伝え、その実践に努めています。 あわせて『21世紀の真の光明となるように精進』を重ねている宗派でもあります。
  ご本尊は不動明王  久昌寺は、曹洞宗には大変に珍しい全身が真っ黒な「不動明王」をご本尊にしています。この不動明王をご本尊としている経緯は、次のことに因ります。  不動明王は、はじめは神恵寺のご本尊でした。ところが、その神恵寺が、荒神の大火(天保の大火(天保十四年・一八四三年三月)で焼失してしまったため、神恵寺から一時預かる形で久昌寺で祭祀していました。
 その後、大正年間(一九一二〜一九二五)に、久昌寺では本堂脇に不動堂を建立し、その堂内に不動明王を遷座しました。このころ、伽藍再建の見込みが立たなくなった神恵寺から久昌寺へ、不明王像が正式に委譲されたのです。(後述の因記参照。)
 久昌寺では、昭和四十五年(一九七〇)に至って、この不動堂を大改修し本堂に定めました。この時に改めて不動明王を久昌寺ご本尊と定め、従来のご本尊・聖観世音菩薩を脇仏としたのです。このことから、近隣の人々は、久昌寺を「お不動さま」の愛称で呼び崇めるようになりました。 昔、久昌寺近辺は、度々火災が発生しました。そのため近所の人々は、おりに触れては不動堂に詣でて「火防祈願」をしていました。こんな実情が、聖観世音菩薩に代えて不動明王をご本尊にする要因になったのかも知れません。今では、毎年一月八日に不動明王大祭が開かれています。大祭の名称は『不動尊護摩法会大祭』です。  久昌寺の不動明王は『荒澤大聖不動明王』とお呼びします。そして、次のような二つの因記も伝えられています。
 《その1》荒澤不動明王は、宝永年間(一七〇四〜一七一〇)に、久昌寺西北方の牛窪山山麓にあった、ささやかな草庵に祀られていました。ここにいつとはなしに「自行」という法印が住み着いて、夜となく昼となく数年間にわたって読経をし続けていました。
 村人は、これを大変怪しんで、あるとき、自行法印に問いただしますと、法印は       威儀を正して、  「庶民のために、抜苦興楽の心願を成就させるためである。」と答えられました。
 そんなことがあってから暫くが過ぎました。村人は、いつとはなしに草庵から読経の声が聞こえてこないことに気づきました。不思議に思った村人が、密かに草庵の中に入ってみますと、そこには、かの法印の姿はなく、代わりに一葉の紙片が残されているだけでした。  村人が集まって、その紙片を開いて見ますと、「我れ三年の後、再びここに来るべし。そのときは庶民に幸福を与うべきときなり。」とありました
。  村人たちは、この事を伝え聞きますと、「なんとも不思議な法印様だのう。」 と噂しあいました。
 やがて三年が経ちました。すると紙片にあったとおり、自行法印が大勢の老若男女に見送られて草庵に戻ってきました。しかも、驚くほどの光明赫々たる不動明王のご尊体を奉載しておられたのです。  草庵に入られた法印は、以前のようにまた読経三昧を続けられました。そして、「病災難等に罹られし人々は来り信仰せよ。必ず諸願成就せざることなし。」 と、村人に伝えました。
 法印の言われる通り、祈願者には大変な御利益がありました。そのことを伝え聞いた遠近の人々が、やがて、この地に集まり来るようになり、善男善女の人数は数限りがないほどになりました。
 人々のために尽くされた法印は、九十七歳の天寿を全うされて他界されました。    法印亡き後も法印の意志を継いで、村人たちが力を合わせて、たくさんの祈願者のために、草庵と不動明王を守護してきました。が、明治維新の際に久昌寺への遷座を請願することが最善の方法----- と、話し合いました。
 二十五世・斯道禅性大和尚は、この村人たちの懇ろな要請を受けて、久昌寺寺域内に安置を実現させられました。以後、幾多の年月、村人とともに信仰を重ねて来て、今日に至っているのです。 《その2》久昌寺に奉安されています不動明王の御尊体は、日本三体不動の一体として、かつて奥州・湯殿山の奥地、荒沢の地に奉安されていました。この不動明王が、自行法印に下賜され、縁あって当地へ遷座されました。
 この仏縁によって、久昌寺の不動明王は、「荒沢」の二字を冠した不動明王尊になりました。これは奥州・湯殿山の因記に依る記録です 。
   本堂は昭和四十五年に大改修 本堂は、境内に入るとすぐの左側(梅田町寄り)に在ります。大正年間に落慶し、昭和四十五年(一九七〇)に大改修されて現在に至っています

 本堂に掲げられる山額は、木目を生かした素晴らしい山額で、「桂林山」という三文字が金色に輝いています。本堂内には、これまた見事な彫り物で縁取られた額が掲げられています。この額も金文字で「明王殿」の三文字が、豊かな筆勢で篆刻されています。
 本堂内には両祖禅師、開山大和尚のほかに、歴代住職の御位牌が安置されています。   開山は牛喚大和尚  開山は、桐生山鳳仙寺八世・応山牛喚大和尚です。応山大和尚は、鳳仙寺末寺の多くを開創された方として、また鳳仙寺の寺運を大いに興隆させた住職として、後世に名を残しています。
 鳳仙寺には、現在、末寺が市内外に十一か寺(当初は十七か寺。五か寺は廃寺)在りますが、この久昌寺も、開山の関係から、鳳仙寺と本末の関係を保っています。
 なお、古記録が紛失しているために、残念ながら「開基は不詳」です。
  現住職は斯賢道哉師    永い久昌寺の歴史と法灯を守り通し、多くの苦難の中で確かな歩みを重ねてこられた、歴代のご住職----- 現・斯賢喜 道 住職が三十一世となります。
 寺の興亡、世相の変動の激しい中での寺運営を、現代まで担って来られた各住職を次に列記してみます。

開  山  応 山 牛 喚 大 和 尚   
第 二世  大 仙 嶺 穏 大 和 尚   
第 三世  印 山 祖 道 大 和 尚   
第 四世  桃 源 嶺 仙 大 和 尚   
第 五世  法 岩 嶺 東 大 和 尚   
第 六世  天 外 仙 長 大 和 尚   
第 七世  墻 外 隣 道 大 和 尚   
第 八世  大 運 嶺 陽 大 和 尚   
第 九世  本 了 達 源 大 和 尚   
第一〇世  枯 外 寂 栄 大 和 尚   
第一一世  仏 心 悟 宗 大 和 尚   
第一二世  玄 法 活 妙 大 和 尚   
第一三世  航 岸 同 海 大 和 尚   
第一四世  隷 外 周 皀 大 和 尚   
第一五世  大 安 国 全 大 和 尚   
第一六世  丹 牛 了 山 大 和 尚   
第一七世  法 山 禅 永 大 和 尚   
第一八世  春 山 禅 友 大 和 尚   
第一九世  瑞 雲 禅 光 大 和 尚   
第二〇世  哲 堂 秀 英 大 和 尚   
第二一世  大 用 量海 大 和 尚   
第二二世  不    詳   
第二三世  全 隨 仙 牛 大 和 尚   
第二四世  大 同 智 廓 大 和 尚   
第二五世  斯 道 禅 性 大 和 尚   
第二六世  不    詳   
第二七世  中興・海雲芳恵大和尚   
第二八世  大 観 博 英 大 和 尚   
第二九世  春 国 亮 英 大 和 尚   
第三〇世  斯 賢 道 哉 大 和 尚
第三一世  小 林 喜 道 和 尚(現住)

この歴代住職の墓所は、 檀家墓地の東側(別記・金八地蔵の隣)に見られます。墓所には歴代住職の無縫塔が整然と安置されていて、ご先祖に思いを寄せられる現住職の『心』を偲ばせています。
 この住職墓所辺から、西側の山上を眺めますと、「国際きのこ会館」の名で知られる白亜の建物が、朝日に輝いて、参拝者の目に飛び込んできます。
   茶寮の井戸跡も現存する  久昌寺寺域は、桐生氏の茶寮の井戸跡だった(先述)という伝承を裏付ける場所が現存しています。今は湧水こそしてはいませんが、井戸の枠組み(石製)と、その存在を示す御影石の石柱が建てられています。
 茶寮の井戸跡は、旧・六地蔵(後述)と対峙する、二十二夜塔の向かって左後ろの樹木の下に存在しています。枠組みには銘がありませんが、隣に立つ石柱に「古跡桐生大炊介茶寮之井戸」の文字が刻されています。
  境内に見る石仏・石神たち  境内には、六地蔵(新・旧)、二十二夜月待塔、六文字名号塔、廻国納経塔、地蔵菩薩像などの石仏たちも散見できます。中でも『金八地蔵(旧・六地蔵内)』と呼ばれる地蔵像には、荒神の大火にまつわる伝説が伝承されています。(別 記) 《新・六地蔵》 恵比須神の隣に祀られているのが「新・六地蔵」です。大変に美しい像であると同時に、六体とも、とても愛らしい相をした地蔵像です。
 基礎の部分には、  桂林山久昌寺 住職三十世 小林道哉  役員 下山国男 上野祐太郎 鳥島儀三郎  兼松眞司 田中謙蔵 黒田幸恵 岩脇麟鳳 上野嶽男 橋本広一 渡辺操 土屋秋吉  辻一夫 関口三郎 上野ゆきえ  外檀信徒一同 の寄進者名が見られます。
《旧・六地蔵》 旧・六地蔵は、旧道寄りの墓地の東、歴代住職墓所の隣に建立されています。この六地蔵は、六体の地蔵を並べて「六地蔵」としたようで、姿・形・相が同じではありません。だだし、この中の向かって右端の地蔵尊が世に知られる『金八地蔵尊』ですので、ぜひ拝観したいものです。
《二十二夜月待塔》 二十二日目の月の出を待って諸々の祈願をする、女人信仰の塔です。この塔は、主尊の如意輪観音像を陽刻し、その下部に「廾二夜講中」と薬研彫りしています。そして「天明元辛丑年(一七八一)十月二十二日」の造立年を彫出しています。月待塔としては、かなり丁寧な造りがなされている塔のひとつです。
《六文字名号塔》 阿弥陀如来への深い信仰を示す塔で、「南無阿弥陀仏 寶永六巳丑年(一七〇九)十月二十二日 境野村 施主 下山五郎左衛門」の銘が残されています。 《地蔵菩薩》 石仏群の中央に立つ菩薩で、真っ赤な帽子とお掛けとを掛けています。これは、ご近所の大須賀さんのご奇特なご奉仕に依るものだと言います。この菩薩には造立年はなくて、「念仏供養」の四文字を見るだけです。 《廻国供養塔》 自然石に「廻国納経塔 享保十四己酉歳(一七二九)十月吉旦 願主 収仙小沙印」の銘が見られます。
 廻国とは、秩父・坂東・西国百観音霊場を納札して巡り、結願の後、無事に廻国できたことに感謝しながら造塔するものですが、世情不穏なこの時代に、果 たして願望通りの霊場廻国巡礼ができ、造塔がなされたのかどうか疑問が残ります。この頃は、口減らしのために廻国に出したという例が、決して少なくないからです。 《禁葷酒塔》 酒の匂いをさせている者や、匂いの強いものを食べた者は、貴い霊地に入ってはいけないということを示す塔が「禁葷酒塔」です。この塔には「禁葷酒」の文字のほかに「宝暦四卯(一七五四)三月吉日 當院八世禅髄代」の文字を残しています。
 久昌寺八世は『嶺陽大和尚』で、銘に見られる禅髄和尚という該当住職が見当たりません。この塔は、いつの時代にか縁あって、この地に安置されるようになったものと思われます。 《金八地蔵》 旧・六地蔵の右端に祀られる地蔵像が「金八地蔵」です。大変貴い相をされた地蔵尊で、地蔵像には珍しく焔光背を背にしています。また、体の回りには朱が塗られています。焔光背は、かの荒神の大火にまつわっての彫出で、朱は、大火の焔を表現していると見ていいのかも知れません。
 無銘ですが、伝承通りでしたら、天保十年代後半(一八三四〜一八三七)の造立と考えられます。 《石像恵比須神》 本堂を背にし、木像・恵比須神と対峙して立つ像が「石像恵比須神」です。この像は、桐生七福神巡りコースが設定(平成四年)されてから造像された神像ですので、比較的新しい造像です。しかし、にこやかなお顔、ボリュームたっぷりな体躯は庶民的で、親しみのもてる恵比須神です。

    立派な千人講石灯籠
 旧道寄りに大きくて立派な石灯籠が一対設置されています。「献燈 千人講」の文字以外の銘は見当たりませんが、近くに、 奉納 石燈籠  一、金壱百圓也  永代燈明料  大正十四年(一九二五)  の文字と「久昌寺二十七世 芳恵代(ほかに特志者・世話人八十七名連名)」と刻まれた碑が建てられていますので、このころ設置されたものと思われます。
 設置年代からしますと、この石燈籠は、荒沢不動尊の講員が浄財を募って建立したものと考えられます。
   生き続ける金八地蔵伝説  荒神の大火の失火者は金八ではなかった。本当の失火者は村の有力者だった。その有力者が、「後で必ず助け出すから。」と言って、金八を身代わりに番屋へ出したが、有力者が助け出せないうちに、金八は処刑されてしまった。
 金八が有力者の罪を被ったまま、無実の罪で火あぶりの刑に処せられたことを知ると、金八を哀れに思った里人たちが、その霊を供養するために地蔵像一体を建立した。
 これが金八地蔵建立の謂れだと伝えられます。そして建立後、この金八地蔵に次のような伝説が生まれ、現代に伝承されてきているのです。
 この辺りに、少々頭の弱い金八さんという若者がいました。頭が弱いために男友達とて一人もいませんでした。ましてや女の子などは、金八さんを振り返ってもくれません。ですから、いつも金八さんは、近所のあちらこちらを日がな一日、ブラリブラリと遊び歩いているだけでした。
 そんな金八さんの耳に、「イモリを燻製にして食べると、女の子に惚れられるようになるんだってさ。」という、耳寄りな話が聞こえて来ました。
 金八さんは、これを聞くと、「ほほう。こりゃあ、いいことを聞いたもんだわい。」と、さっそくザルと桶を持って、近くの小川に出かけて行きました。
 小川に着いた金八さんが、川の中を覗いて見ますと、真っ黒な体をひるがえしては、時々赤い腹を見せるイモリが結構たくさんいました。「おうおう、いるわい、いるわい。」金八さんは、もう大喜びでした。
 イモリは、わずかの間にたくさん捕れました。金八さんは、そのイモリをもって荒神様の裏山に向かいました。その日は、とても静かな春の日でしたので、裏山に着くと金八さんは、そこで焚き火を始めました。焚き火の周りには、串刺しにされたイモリがグルリと並べられました。
 「これを燻製にして食べれば、オレにだって女の子が寄ってきてくれるようになるんだぞ。」金八さんは、もう、ルンルン気分でした。  ところが-----、 ところがでした。あんなに静かな日だったというのに、突然、一陣の突風が吹き荒れたのです。しかも、その突風のために焚き火の火の粉がたちまち四散して、あちこちで火の手を上げてしまったのです。金八さんは、さすがに顔色を変え、燃え上がった飛び火を着ていたハンテンで叩いて消して回りました。
 しかし、火の手は衰えるどころか、ますます大きく燃え広がり、とうとう桐生川を飛び越えて、菱村の方にまで燃え移ってしまいました。そして、菱村はじめ桐生郷総なめの大火になってしまったのです。
 これが、今でも『桐生屈指の大火』と言われている『荒神の大火』なのです。
 金八さんは、この失火の大罪で、とうとう「火あぶりの刑」に処せられてしまいました。
   ところが、これで一件落着とは行かなかったから、たいへんなことになりました。  「本当の失火者は金八さんじゃなかったんだよ。 失火してしまったのは村の顔役の某だったのに、某は自分の立場ばかりを考えて、『後で必ず救い出してやるから』といって、金八さんを身代わりに立てたのさ。だけど、助け出せないうちに、とうとう金八さんが処刑されてしまったんだよ。かわいそうにな。」と言うのです。
 村の人達は、そのことを知ると、 「これじゃあ、金八さんは浮かばれめえ。 このまんまじゃ、あんまりにもかわいそうだ。金八さんが迷わず成仏できるように、みんなして供養してやんべえ。」と、金八さんを哀れんだ里人は、梅原の薬師堂の庭にお地蔵様を建立し、盛大に供養しました。
 そのころの桐生川は、大変な暴れ川でした。いつもいつも村の人々は、桐生川の洪水に悩まされてきました。ところが、この金八地蔵を安置してからは、その様子が少し変わりました。桐生川の堤防が決壊しそうになると、この金八地蔵が、体を真っ赤にして村の人たちに「危険」を知らせてくれるようになったのです。 ですから村の人々は、早めに安全な土地へ避難することができるようになったのです。
 「こりゃあ、きっと金八さんが成仏してくれたという証拠だよ。 ありがたいこった。ありがたいこった。」と、村人たちは、金八さんに感謝をすると同時に、金八地蔵のこの行為に、不安だった胸をホッとなでおろしたのです。
 やがて、世の中が移り変わって大正時代を迎えました。この大正時代に、なんと金八地蔵の台石が何者かに盗まれてしまったのです。とたんに、桐生川がどんなに危険な状態になっても、金八地蔵は、ピタッと体の色を変えなくなってしまったのです。
 「こりゃあ大変だ。あの台石は、どこへ持っていかれちゃったのかいな。」と、村人は今後を心配し、八方手を尽くして探し回りました。すると、天神様の近く(現在の群大工学部の前辺り)の料理店の上がり框の石に使われていることがわかりました。 その料理店へは、某石工が酒代代わりに置いていったのですが、その石を置いて以来、奇妙な泣き声が毎晩聞かれるようになってしまったというのです。そこで祈祷師に祈祷してもらったところ、金八地蔵の台石とわかったので、早速、金八地蔵のもとへ戻してきました。
 「台石が戻っても、このまんまじゃ金八地蔵も気分が悪かろう。 地蔵を久昌寺へ移して、もう一度盛大に供養してあげようじゃないかい。」という宮内(天神町三丁目の桐生川寄りの一角)に住む旦那の考えで、金八地蔵は、梅原薬師の庭から久昌寺境内へ移され安置されました。再供養も建立当時に増して盛大に行われました。
 しかし、やはり金八地蔵は、村の人たちに危険を知らせる行為を再びは見せてくれませんでした。  金八地蔵に伝わる、今は昔の物語です。(ふるさとの民話より)

   子息の供養にと建立された十三重塔
 境内に一際目立って大きな十三重塔が建てられています。この十三重塔は、平成七年に他界されたご子息の供養にと、現住職・斯賢道哉師が同年八月に建立された塔で、基壇に次の銘が刻まれています。
     當山三十世 斯賢道哉 平成七年八月    陽光に映える水子地蔵  十三重塔の本堂寄りに、陽光に映えて建てられている像が「水子地蔵」です。寄進者は上野佑太郎さんで、昭和六十年八月に建立されたものです。
   見事な明王殿改築記念碑
 十三重塔の向かって左側には、見事な碑が立っています。「明王殿(本堂)改築記念碑」です。表面 に「明王殿改築記念碑」と大書したほかに「山鹿峯月書印印 赤羽壽榮鐫」の文字を彫り、裏面 に「昭和八年十月廾八日 桂林山明王殿 久昌寺二十七世芳恵代」の銘と五百名前後の「寄付者芳名」を刻んでいます。
   愛らしい合掌小僧
    庫裡の近くには、緑色の愛らしい小像がみられます。それが「合掌小僧」です。少々頭の大きいところが、余計にかわいらしさを感じさせます。上野辰治さんの寄進で、作者は水沢石材店。平成四年三月の造立です。
   墓地内にはハクレンの古樹
 墓地内には一本のハクレンの古樹が見られます。久昌寺近くで戦前・戦中の子供時代を過ごした人たちにとっては、思い出の多いハクレンでしょう。
 当時は近所に遊び場がなかったことから、子供達はヒマさえあれば、このハクレンのある久昌寺境内に集まって来て、日の暮れるまで夢中になって遊んだものでした。(墓地も遊び場にしていました。)もちろん、そのころはハクレンの下から庫裡の前までは、狭かったけれどちょっとした遊びのできる広場でした。その広場での遊びの度が過ぎて、子供達は、よく住職さんに叱られたものでした。
 そんな子供の頃のできごとが、ハクレンの古樹を見るたびに、今は懐かしい思いでとなって蘇ってくるからです。

 


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