特 筆 さ れ る 住 職
この歴代住職の中には、特に傑出した住職、たいへんな災難に遭遇された住職、人情味豊かな住職がおられます。その特記される住職を紹介します。
第二代・風山大春和尚 開基・高橋丹波守英元の嗣子・治郎右衛門の五男として生まれ、幼名を高橋五郎丸種景といいました。十七歳のときに剃髪をして、広沢村・大雄院の牛室(後の祥雲寺開山)和尚の弟子となり「大春」との法名をいただきました。
大春和尚は、大雄院での修行の後、境野村へもどって、正保二年(一六四五)に祖父の旧領・堀口村から昌雲寺を当地に移し、
祥雲寺伽藍を整えました。そして、 祖父の英元公を開基さまに、師の牛室和尚を開山さまに迎えています。
寺を開創するには、幾多の条件がありましたが、自ら開基・開山になり得る立場にありながら、あえて亡き祖父・亡き師匠を迎えているところに、大春和尚の人情味にあふれた人柄が偲べます。
また、高橋家文書に、寛文二年(一六六二)加(賀)茂社南方中畑三畝歩(およそ三〇〇平方メートル)同 西ノ方中二畝歩(およそ二〇〇平方メートル)林作右衛門ト両人ニテ社ニ奉リ大社ニ成シ此遺ハ年々社ノ角ニ盆ノ魂魄送リ両家ニテ永々可送候
とありますように、大春和尚は、仏道ばかりでなく神道への心入れも多大だったようです。
第八代・本光瞎道和尚山城国(京都)伏見の出身。本堂と方丈の建て替えを行っています。このときの伽藍は、残念ながら天明八年(一七八八)の火災で焼け落ちてしまっています
本堂の建て替えということは、お寺にとっては大事業です。この大事業にあえて取り組まれた瞎道和尚の意気込みと、檀家の方々の熱意のほどが窺われます。
第十代・大光蜜仙和尚当国植木野村の出身で、詩寮、 鐘堂、 六ツ足門(山門・現存)を建てています。密仙和尚に「中興」の二文字が冠されていますのも、八代様に継ぐ伽藍充実の功労によるものでしょう。やはり、六ツ足門以外の伽藍は、天明の火災で焼失しています。
第二次大戦中に供出で姿を消した梵鐘は、安永八年(一七七九)の銘があったと記録されていますので、これら伽藍の建立もそのころの年代になるのではないでしょうか。
第十四代・大栄千樹和尚 三河国(愛知県)八名郡八名村の出身。僧籍に入られる前は山形氏を名乗っていました。天明八年(一七八八)六月に祥雲寺に入山されましたが、入山前日に出火があって、六ツ足門を残して祥雲寺全伽藍が焼失してしまいました。ですから、千樹和尚は生活する建物さえない祥雲寺に入山したわけです。
入山早々に千樹和尚は、祥雲寺復興に奔走し、その年の暮れには庫裡と方丈を完成させ、寛政元年(一七八九)三月には、早くも本堂の落慶をみています。和尚の奔走ぶりと檀家の人々の並々ならない熱い心が伝わってきます。昌雲寺焼失後三カ年にして、すべての伽藍を復興させたと伝えられています。
此十四代様入院(入山)乃前夜ニ焼失門斗リ残リ候 焼後ニテ入山ス 天明八申(一七八八)六月日焼失□寛政元酉年(一七八九)三月本堂夫従方丈クリハ前年十二月立 三ケ年之内ニ不残出来(以下略)=高橋家文書=
天明八年入山後、文化四年(一八〇七)までの二十年間も住職し、寺を豊かにした大功ある和尚でした。
第十七代・法山達幢和尚 文政二年(一八一九)七月二十三日に、地元境野村に生まれました。
下市場村慈眼寺の毛行和尚の弟子になって修行を積まれてから、嘉永年間(一八四八〜一八五三)に祥雲寺に入山されました。入山すると間もなく、伽藍の各所に破損の目立つことを憂いて、檀信徒の力強い協力のもとに大修復にあたり、それを実現されました。「再中興」の三文字が、和尚の功績がいかに大きかったかを示す証左です。
法山和尚のもう一つの業績は、祥雲寺塾を開いて寺子(てらこ。寺子屋で学ぶ子供達)の指導を行ったことにあります。入山するとすぐに開塾(境野小学校開校を前にして閉塾)し、慈愛に満ちた指導を重ねられました。博学、多芸、多能、探求心旺盛の和尚が心を込めての指導は、寺子ばかりか村人たちに計り知れない影響があったようで、大正元年(一九一二)には寺子たち六十九名によって、報恩の『法山老和尚之碑』が建碑されました。(前橋市の龍海院前住・高岡白鳳師撰文、足利市の長林寺二十八世・大沢哲道師書)銘文は後述のとおりです。
また、法山和尚は石州流の道を極めた茶人としても知られ、傑人・山岡鉄舟とも親交がありました。詩文、和歌、書画の道にもたいへん造詣が深く、楽焼でも「和楽庵」の雅号をもつほどの腕前の風流人でした。仏の道では禅三派取締役、訓導、小講義という要職にありながら、71歳にして大学林伝習所で勉学に精励したほどの傑僧でした。
※ 石州流茶道・・・・片桐石見守貞昌を祖とする江戸時代の茶の湯の一流派で、支流には鎭信派、宗源派、伊佐派など、多数あります。
※ 山岡鉄舟(一八三六〜一八八八)・・・・幕末〜明治の政治家であり剣道の達人。通
称を鉄太郎といい、北辰一刀流の千葉周作の門人で無刀流を創始しています。戊辰戦争のときには勝海舟の使者として駿府(すんぷ。静岡市)におもむき、勝海舟と西郷隆盛の会談を斡旋して、江戸城の無血開城に尽力しています。明治維新後は、明治天皇の侍従を務めました。
第十八世・昭山亥霊和尚 勢多郡南橘村の出身。麦藁葺き屋根だった本堂を瓦屋根に葺き替える難事業に取り組み、それを完成させた功労者です。麦藁屋根は四〜五年で葺き替えをしなくてはならないために、お寺では、葺き替え工事のことを常に心配していなければならない状態で、大きな苦痛でした。しかし、銅版葺きか瓦葺きにすればよいことはわかっていても、本堂があまりにも巨大なために、本堂の柱に加わる瓦の総重量
や経費の問題から、容易に取り組むというわけにはいきませんでした。それだけに、それを乗り越えて実施に踏み切った和尚の一大決心の程が窺えます。
今、雄大な瓦葺きの本堂の姿を望むとき、檀信徒の皆さんは、きっと在りし日の昭山和尚の決意した雄々しい姿を思い浮かべるのではないでしょうか。
第二十世・大興法隆和尚 昭和二十六年(一九五一)に私立保育園を開園し、市内でも一〜二の規模を誇る園経営をしていました。開園当時は本堂を園舎にし、園児をリヤカーで送り迎えをしたり、冬には人絹糸が包んであった紙を利用し、それを本堂の周囲に張り巡らせて防寒に役立てるという苦労を重ねました。
その苦労が実って、開園二十年目ころになりますと、立派な独立園舎の中で喜々として生活する園児数が一六〇人を数え、従事する職員も二十名に達するほどの発展を見ました。ところがその後、少子化の波をもろにかぶるようになり、園児の確保が困難となって、平成五年には、人々に惜しまれながら廃園となりました。
しかしながら、幼児教育に与えた長年の数々の功績は、お寺の社会事業中、最も意義ある事業として、今や祥雲寺の輝く金字塔となっています。
また、鉄筋コンクリート造り四階建ての庫裡会館建設を実現させた業績が特筆されましょう。
第二十一世・悌順孝徳和尚(現住職) 晋山してまもなく、早くも仏教界の要職である「第八教区会長」に就任し、見事に大役を果
たしています。現在は民生児童委員としてご活躍中です。
|