歴代住職の中には、『宗門の傑僧』とまで称えられた名僧がおります。第二十五世・穆山瑾英大和尚が、その傑僧です。ここに、その瑾英大和尚の略伝を記して、その英邁ぶりを偲んみることにします。
鳳仙寺第二十五世となられた穆山瑾英和尚は、青森県八戸湊町の生まれで、俗姓は笹本氏でした。仏典に基づき西有家を創られました。文政四年(一八二一)十月二十三日の生まれです。 九歳で得度し、類家村の長竜寺で十九歳まで修行されてから、さらに仙台・松音寺で三カ年修行を重ねた後、二十一歳になられてから江戸に向かわれました。江戸では駒込・吉祥寺学寮に入られて不眠不休の勉学に努められました。
天保十四年(一八四三)八月からは、浅草の本然寺泰禅の室で嗣法し、間もなくして牛込・鳳林寺の住持となられました。しかし、住すること二年、再び各地を遊歴して名僧・碩学を求め、参禅・求道に精進されるという向学ぶりを示しました。その遊学中、江戸・吉祥寺の愚禅師、相州(神奈川県)海蔵寺の月潭師等の会下で参究して、省悟するところが多くありました。また、道元禅師の六百回忌に永平寺に赴き、蛮堂師に会し、その会下に入って上野・竜海院で二夏を過ごすほどの求道ぶりでした。 その後、駿河(静岡県)、相模(神奈川県)、江戸の諸山にも住して四十二歳を超えました。この時に、明治維新に際会したのです。そして、いち早く廃仏棄釈の風潮の一世に蕩々たるを喝破して、「護法用心集」「山陰閑話」等を記しました。明治四年(一八七一)を迎えましたときに、桐生山鳳仙寺に入院されて住持となりました。しかし、鳳仙寺在住はわずかでした。在住一カ年後に総持寺・奕堂師の召しによって上京され、坦山、琢宗の二師とともに教部省の大講義を命じられたのです。続いては、総持寺東京出張所監院兼本山貫主代理をも命ぜられました。明治六年(一八七三)一月には、大教院議員に選ばれました。その大教院の議題の中には、僧侶の「法服廃止、俗衣着用」の論議があり、議員たちの大変な動きに遭遇されました。しかし、このことにに対しての新議員・穆山師の考えは「絶対反対」でしたので、それを強く唱え続けました。俗衣着用論が強くあった大教院の流れでしたが、穆山師の考えに臨済宗の天竜寺・滴水、相国寺・独園の二師が和してくれたことから、その流れを止めて、ついに院議を翻すことを得たという記録が残されています。穆山師の論証の見事さを伝える事例といえましょう。
その後、穆山師は、引き続いて宗門の要職、教界の第一線で活躍をし、『宗門に穆山あり』との名声が、全国宗門に喧伝されるようになりました。
明治二十九年(一八九六)に、穆山師は、「正法眼蔵私記」「正法眼蔵講義」を公刊され、名声いよいよ高くなった同三十四年(一九〇一)春、総持寺独住三世の席を董し、六月十九日には、直心浄国禅師の徽号を朝廷より拝受されました。そして翌三十五年、ついに曹洞宗管長に任命され、明治三十六年に満期退任されるまで、見事な手腕を存分に発揮されて、宗門の興隆のために尽くされました。しかし、退任された後も、穆山師の人望や手腕を惜しむ声が宗門内に多くあつて、翌三十七年には再び管長に任命されました。
管長に再任された明治三十七年(一九〇四)六月には、大日本宗教家大会があり、選ばれて、その大会の座長も務められましたが、それを契機にして、その年の十二月、管長を辞したうえ、翌年二月には総持寺も退院して西有寺に移られました。そして悠々自適の佳境に入られた後、明治四十三年十二月四日に天寿を全うされて遷化されました。寿正九十歳でした。
遺喝に曰く、
『老僧九十 言端語端 無末期句 月冷風寒』
著書もまた多く、穆山瑾英和尚は、まさに宗門の「一代の傑僧」でした。
この傑僧・穆山瑾英大和尚を含む歴代住職(開山〜第三四世)の墓所は、本堂裏手の台地にあります。開基・由良成繁公墓所の西側にあたる位置で、開山・仏広常照禅師の墓を中央にして安置されています。