福禄寿の寺・青蓮寺

青蓮寺ホームページはこちら

    青蓮寺への道
 福禄寿神を祀る第四番札所・青蓮寺は、「仏守山義国院(ぶっしゅざん・ぎこくいん・しょうれんじ)」という山号をもつ、市内唯一の時宗のお寺です。所在地は市立北中学校の上手(桐生工業高校テニスコート手前)の西久方町一丁目10〜11です。  大黒天の寺・法経寺から、ここ青蓮寺へ至る道順は次のようになります。
 法経寺を後にして、再び桐生工業高校脇の十字路に出ます。そこを左折して、そのまま北上しますと、間もなく左手に市立北中学校の校舎・校庭が姿を見せてくれます。先述しましたように、青蓮寺は、この北中学校のすぐ隣に位 置していますので、まわりの景色を堪能する間もなく、青蓮寺への入り口に到達してしまいます。法経寺からは、わずかに500?の道程で、七福神めぐりの中では、最も短い道程になっています。
 校舎とは反対側にある、北中学校駐車場フェンス裏(梅田町寄り)の細い道路を左折して進みますと、かわいらしい六地蔵と庚申塔・二十三夜塔・回国納経塔らが参道の両脇に並んで、皆さんを迎えてくれます。(または、その先の『群馬県指定重要文化財案内標識』のところから左折しても庫裡の前へ出られます。)
 このお寺の自慢は、春に墓地全体を見事に彩る満開のサクラ、そして、ツツジが群れ咲く美景でしょう。本堂前のハクレンの美しさも言葉では言い表すことができません。四季を通 じてなにかしらの花々が見られるように配慮された、このお寺のこまかい心くばりが、境内の隅々の環境美化面 にも多々見られるのです。
 この心くばりは、単に花だけではありません。墓地管理をはじめとする様々な寺院運営面 にも、そのことが強く感じとれます。とにかく、ハクレン(見頃は三月下旬)・サクラ(およそ90本植栽されています。見頃は四月上旬)・ツツジ(見頃は五月)等のシーズンに青蓮寺を訪れて、皆さん自身の目でその「現実」を確かめ、その「美しさ」を堪能してみてほしいものです。
 福禄寿は地蔵堂の中に安置  お参りの目的の福禄寿神は、山門と本堂との丁度中間にあたる参道の左側に建つ、日限地蔵堂内に祀られています。青蓮寺に安置される福禄寿神は、豊かな髭をたくわえた像で、左手に巻物を持ち、右手に杖をつき、満面 に笑みをたたえています。大きな長い頭部が印象的です。
 堂内には、中央に日限地蔵尊がお祀りしてあり、福禄寿神は、日限地蔵尊の向かって左側に安置されています。
  ※ 日限地蔵尊は、頚継地蔵(くびつぎじぞう)の別称をもっています。これの由来については後述します。

   福禄寿は幸福と長寿を授ける
 皆さんが両の手を合わせて祈願をする福禄寿神は、「幸福と長寿」を授けてくださる福神として昔から庶民に深く信仰されています。
  宝 船 の 歌(廻文歌=上から読んでも下から読んでも同じ文の歌) 長き夜の とをの眠りの みな目ざめ       波のり船の 音のよきかな ※  ながきよの とおのねぶりの みなめざめ なみのりぶねの をとのよきかな   福禄寿神    福禄寿神は「しあわせ」を授ける神で、短身・長頭。経巻を結び付けた杖を持ち、鶴を従えるのが神像の特徴になっています。福禄寿神の発生は、中国の仙人に由来すると言われますが、定かではありません。時折、寿老人と混同されることがあるのは、妙音寺・寿老人のところで述べたとおりです。
 青蓮寺に祀られる福禄寿神については、お寺でその紹介文を発行していますので、その概要を再録してみます。
 『福』とは幸福を、『禄』とは富貴を、『寿』とは長寿を意味していますが、一般 的には、「幸福と長寿を願う神」であると言われています。また、人望を願う神とも言われており、元来は、寿老人と同一であったと伝えられています。
 本寺の福禄寿については、縁起・伝承ともになく、いつ頃から当寺にお祀りされていたのかは不明です。  以前、青蓮寺の檀家さんは、ハタ屋のダンナ衆が中核をなしていたようです。いまを去る二八〇余年ほど前の桐生の地は、絹織物の隆盛にともない、極めて財力のある土地でした。そのハタ屋のダンナ衆が、青蓮寺檀家さんの多くを占めていたということは、お寺の運営にもかなり好影響を与えていたろうことが推測できます。そのことは、天満宮の豪華な社殿建立と時期を同じくし、当山でも極めて立派な須弥壇・欄間が造られていることでも想像に難くありません。
 それらを見ていますと、一体どのくらいの財力があったのか想像もできません。まさに「想像を絶するものあり」です。桐生が江戸時代に幕府の直轄地でありつづけたことが、そのゆたかな財力を生み出したことの裏付けなのかも知れません。
 その当時は、七福神信仰も盛んであったそうです。青蓮寺には、当時の「根付け」と思われる小さな古い福禄寿のお像があります。おそらく幸福と長寿を祈願した方の寄進か、あるいは形見ではないかと推測されていますが、当時の町人文化を忍ぶことのできる貴重な逸品と言えましょう。
 二体の福禄寿は、ともに造立年代・作者等いっさいが不明ですが、日限地蔵内にお祀りする像は比較的新しく、江戸末期から明治初期頃のものではないかと思われます。いずれにしましても、過去に、この像に幸福と長寿とを祈願した大勢の善男善女がおられたことは間違いありません。それだけに、ただ観光気分で福禄寿に手を合わせるのではなく、「今の自分を見つめ直し、自分の思い込みによる誤りを正す」。そんなご参拝がいただければ・・・・・ と考えます。
 苦しみの多いのが人生でありますが、苦と楽とは表裏一体のものです。謙虚な気持ちで生きていきたいものです。 (筆者注 ・素晴らしい本堂欄間の彫り物の中に、鹿を連れた寿老人の姿も見られます。このことからしますと、青蓮寺は福禄寿と寿老人の二福神をお祀りしていることになります。)

  スタンプはお堂の前で
 福禄寿神参拝記念のスタンプは、お堂の前に置いてあります。押印料(百円)を納め、感謝の気持ちを込めてていねいに押印してください。
 なお、その他の記念品として、『開運福禄寿御朱印』『絵馬』『青蓮寺・本尊善光寺阿弥陀三尊・福禄寿説明書』等が購入できますので、希望者は庫裡へ申し出るとよいでしょう。
    青蓮寺の歴史
 福禄寿神参拝がすみましたら、青蓮寺の歴史もひもといてみましょう。

  創建
  青蓮寺は、桐生氏に代わって桐生領主になった太田金山城主・由良成繁公が、天正三年(一五七五)に新田郡岩松村(現在の尾島町)の青蓮寺(新田・足利両家ゆかりの寺)を現在地に移築されて開創された寺です。移築以来四百二十余年もの長い歳月、本堂がそのままに保たれているという、素晴らしい古刹です。(修理の手は加えられています。)
 神奈川県藤沢市の清浄光寺(別名・遊行寺)が本山で、県指定重要文化財で知られる『善光寺三尊仏』をご本尊としています。
 成繁公が、桐生に青蓮寺を移築した後の岩松村には、その後、改めて青蓮寺が建立されました。従って、現在は「青蓮寺」という同名のお寺が二か寺あるわけです。

    本堂
 火災の多かった桐生の地にありながら、一度も火災に逢わなかったということが幸いして、本堂そのものが、安土桃山時代の建築様式を今日に伝えている貴重な建築物です。
 古老の話によりますと、昔は「本堂の後ろで遊ぶと、目がつぶれる」と言われ、だれも本堂の後ろには近づかなかったとのことです。尊いご本尊の後ろに回って遊ぶなんてことが、間違ってもあってはならないという戒めから生まれた言葉なのでしょうが、同時に本堂を傷めないようにとの配慮も含まれていたことと思われます。

  宗派
  宗派は桐生市内唯一の『時宗』のお寺です。青蓮寺が時宗となっている経緯を岩松村・青蓮寺縁起では、次のように記述しています。
 八幡太郎源義家の三男、式部大輔義国、後仏門に帰し義国院と称す。其後、新田大炊助義重の玄孫岩松時兼、嘉禄二年(一二二六)岩松郷の地頭職に任ぜられ、其孫、新田下野太郎政経、岩松の館に住し、義国の法燈を伝承し、岩松郷に一宇の伽藍を建立し、岩松山義国院青蓮寺といふ。建治年間(元年、一二七五)僧一遍上人東国に法を弘むるの際、上人に帰依し、時宗に入る。(以下省略)  この縁起からは、山院号の由来も理解できましょう。

 ご本尊
  ご本尊は、県重要文化財(昭和三十三年三月二十二日指定)の善光寺阿弥陀三尊仏です。寺伝によりますと、三国伝来の仏像であり源氏相承の仏像でした。源頼義公が融通 念仏を信仰した際、この三尊仏を本尊とし、その後、八幡太郎義家公の三男・義国公に、さらに新田義重公、義貞公にと伝えられました。
 以来、新田氏の守本尊として金山城内に安置され、次いで岩松村・青蓮寺に大切に祀られてきました。そして、本堂移築にともない、桐生の地に移って来たものです。
 本堂の前に、桐生市教育委員会が立てた、ご本尊の説明板があります。それによりますと、鎌倉期(一一八二〜一三三三年)のものと推定できる秘仏で、大切に保存されてきた。三尊とも鋳抜きで、きわめて鋳ざらいがよく、鍍金のあとが見られ、善光寺三尊仏の中でもまれに見る見事な作である。 といった内容が記述されています。
 この本尊は、現在も「秘仏」で、年一回のみ、それも秋のお彼岸の中日に五時間だけ御開帳し、人々に参拝していただくことになっています。それくらいですから「本堂の後ろで遊ぶ・・・・・ 」と同じように、「御厨子をあけると目がつぶれる」と言う、言い伝えが現在も生きています。  由緒・伝承もすばらしく、また古仏であり、美術工芸面からも優れた作品のご本尊あることがわかります。

 例祭・集会
  この名刹の例祭や主な集会は、次のとおりです。
 半僧坊春季大祭=墓地の上の山頂に祀られている半僧坊大権現の大祭で、毎年四月の第二日曜日に催され、大勢の参拝者で賑わいます。
 ここは亮海大和尚の代であった大正六年(一九一七)に、大和尚自らが、西方寺住職ともども鎌倉の建長寺に出向いて、そこの半僧坊の分身を勧請したものです。大祭では交通 安全、家内安全等を祈願し、御守・護摩札を授けていただきます。
 大施餓鬼法要=檀信徒大勢が一堂に集まり、十月九日にこの法要を行っています。 お経の会=毎月一日早朝(四月〜九月は午前六時から、十月〜三月は午前六時三〇分から)に本堂で開催しています。宗派は問いませんし、参加も自由です。

   開基と開山・歴代住職
  開基    青蓮寺の開基は、桐生領主・由良成繁公その人です。
  開山    開山は満悟上人です。上人は天正三年(一五七五)に示寂となっていますので、入山してわずか一年以内で他界しているわけです。
  歴代住職
  青蓮寺は、開創以来、一度として火災に逢っていないという、すばらしい記録を有していますが、古記録一切を失っており、寺歴は定かではありません。  青蓮寺は、領主自らが開基となっていますところから、開創早々から順風満帆のスタートだったことが予想できます。しかし、歴史のいたずらは、開創十六年目にして、この青蓮寺に大打撃を与えるのです。豊臣秀吉公の小田原征伐に対抗して敗れた由良氏が、天正十八年(一五九〇)に常陸(茨城県)の牛久に左遷され、最も頼りになる外護者を失ってしまったからです。このため、寺が相当荒廃した時代や無住寺時代が長くあったようです。
 こういった中で、一時期、過去帳・古記録を檀家総代さんが東京の自宅に保管した事がありました。この保管中、運悪く関東大震災(大正十二年・一九二三)に逢い、それらの記録一切を焼失してしまったのです。このことから歴代住職名はもちろん、その世代・没年等不明のままとなりました。本山や別 の寺院に普山した住職もあって、墓碑が住職墓地に全部残されてはいませんので、今の時点では、それを判明させる手立てがありません。  歴代墓地に残る住職の墓の銘からは、次の各住職を判明させるだけにとどまっているのが現状です。今後、檀家や郷土史家等から、過去帳や古記録の写 しが発見されれば・・・・・ と願っています。  ここに記録しましたのは、世代が判明しました住職以外は、すべて示寂された年代順で記録してみました。

開 山  満悟上人           
頓誉浄円大徳           
法仏妙心比丘尼           
行阿西雲比丘           
行誉観阿円心大徳           
洞 利源大徳                   
嵒   願阿法心大徳  
清眼常開大徳      
一三世  中興前与徳院但阿了忍和尚      
一四世  洞雲院覚阿円了和尚      
一五世  泰岳和尚           
法誉頓阿宗円大徳           
万生軒梵阿原光大徳和尚      
四一世  権大僧都覚阿良善和尚      
四二世  贈正僧正桂光院其阿上人亮海老和尚      
四三世  中興贈権少僧上桂光院其阿上人亮光老和尚
四四世  本間光雄師(現住職)  

 歴代住職の墓所は、二か所に別れています。一カ所は、半僧坊大権現の鳥居をくぐってから、右折して間もなくの所に安置されています。その地には、開山・満悟上人から四一世・良善和尚までの無縫塔が並びます。
 もう一カ所は、本堂の並びにあります。 一遍上人の像から少々墓地に寄ったところに在り、蓮台上に建つ無縫塔の正面 には『當山歴代和尚之墓』の文字が見られます。隣の墓記を見ますと、次のように記録されています。
當山開山上人以来歴代之和尚
四十二世正僧正桂光院其阿上人亮海老和尚(以下略)    
中興贈四十三世権少僧正桂光院其阿上人亮光老和尚(以下略 )

   ぜひ境内の拝観を
 福禄寿神の参拝が終わりましたら、ぜひ境内の拝観をして見てください。半僧坊大権現、一遍上人像、高橋誠一先生歌碑、日限地蔵尊、水子地蔵尊、黙魂碑など、見るべきものがたくさんあります。

 一遍上人像
  本堂に向かって左側に見られる像が、一遍上人(遊行上人)の像です。一遍上人は、延応元年(一二三九)〜正応二年(一二八九)に活躍した鎌倉時代の僧で、時宗の開祖です。出身は伊代国(愛媛県)。
 全国各地を参籠遊行し、衆生を済度。建治元年(一二七五)に熊野権現参籠百日を期して感得するところがあって『一遍』と号しました。そして、さらに諸国遊行の途につき、多くの衆生に念仏札を授け、正応二年(一二八九)に兵庫で法談会を開いたのを最後に、同年八月二十三日に没しました。 「大地を往く一遍上人」と言う学者がありますが、上人の一生を見事に、そして端的に表現した言葉と言えましょう。

 高橋誠一先生歌碑
  本堂前には、一基の歌碑が見られます。一遍上人像とは反対の場所に位 置し、本堂に向かって右手に建てられています。歌碑は、草炎社中の人たちが師・高橋誠一氏の作品を自然石(青石)に手彫りで刻んだもので、碑面 には、山はいま み冬に入らん ひそけさにのこるもみじの 黄に澄みにほふ  誠  一 とあります。昭和五十四年十月の建立です。

 半僧坊大権現
  墓地の入り口に「半僧坊大権現」と刻まれた石柱と、石の鳥居があります。そこが半僧坊大権現への入り口で、鳥居をくぐりましたら左側へ入り、石段なりに登り詰めますと、権現堂が姿を現してくれます。位 置は墓地の最上段のさらに上段にあたる山頂です。
 普段は、ここを訪れる人影も少ないようですが、春季大祭前後は気候もよく景色もよくて、すばらしい所です。このお堂の前庭からは群大工学部が樹間に美しく一望できて、汗ばんだ心身をホッとさせてくれます。
  半僧坊大権現は、前述のように大正六年(一九一七年・亮海上人の代)に、鎌倉建長寺の半僧坊の分身を遷座したもので、交通 安全、家内安全などに御利益があります。

 水子地蔵尊 、
  半僧坊大権現入り口の手前に「水子地蔵尊」が建ちます。昭和六十年十月五日建立という新しい像ですが、次のような銘が刻まれています。 水子地蔵尊  一切精霊極楽 昭和六十年十月五日 みんなミんな よりてすかれや 水子地蔵 今日晴れはれと 秋の日に建つ    よし子  
   遊行七十二世他阿一心上人開眼御親行記念     当山四十五世 本間光雄代   後生車
   水子地蔵尊の隣りに並び立つのが後生車です。塔身に輪廻車がありますので、一見してそれと知れます。
 この後生車には、  南無阿弥陀仏 乳房吸ふ すへさえ知らす 逝きし子らを   護らせたまへ 水子地蔵尊 よし子 の句が刻まれています。

  黙魂碑
   墓地の中段の上手(かみて)にあるのが「黙魂碑」です。自然石を用いた碑ですので、容易に所在がわかると思います。
 黙魂碑は、桐生市の旧家の一つである『山賀家』の祖先・山賀大学の墓で、
  卍  黙 魂 碑    施主 田村喜兵衛 山賀平八     天文二年(一五三三)十二月晦日     山賀大学之墓        為山賀氏祖曽菩提造立之者也      太保義永居士 享保二歳(一七一七)龍舎丁酉仲春吉旦         新田由良属 山賀三重郎之墓     鳳仙現住嶺隠代 の銘が残されています。
  日限地蔵尊    最初に参拝しました福禄寿神がお祀りされている、お堂の中の中央に安置されているのが日限地蔵尊です。この尊像は室町時代の木像ですが、平成五〜六年に修理され、見違えるほどに立派に生まれ変わりました。  この修理の際に、次のような銘文が発見されています。
   □蔵□薩(地蔵菩薩) 檀那桐生五郎えもん 金蔵陀                願主 元亀四年(一五七三)癸酉三月吉日
 元亀四年は天正元年ですので、桐生氏が由良氏に滅亡させられた年と同じ造立年を刻んだ銘文ということになります。しかも造立の「月」までが桐生氏滅亡の月となっています。  この地蔵菩薩は、頚継地蔵(くびつぎじぞう)の別称ももち、次ぎのような伝承を残しています。
  この地蔵尊は、桐生家代々の奥方の念持仏でしたが、桐生家滅亡にあたり、桐生又兵衛に授けられました。又兵衛が、この地蔵尊を自家地内に安置しましたところ、次ぎ次ぎと偉大な霊験があらわれた上に、落人詮議の厳しい中で又兵衛一族は由良氏からの断罪を免れることができました。
  その後、「地蔵尊を青蓮寺に納めるように」との霊夢があり、又兵衛のもとを離れて青蓮   寺に安置されることになったのです。

  石仏たち
   石仏の造立数は少ないようですが、山門脇に庚申塔、廿三夜塔、回国供養塔、地蔵菩薩が祀られています。
  庚申塔 は、「庚申」の二文字が見られる自然石文字塔で、文久二年(一八六二)の造立。
  廿三夜塔 は、「廿三夜供養」とある、寛政三年(一七九一)造立の塔。 回国供養塔 は、『供養』と彫るのが一般的なところを『納経』と刻み、「回国納経塔」としてい   ます。市内では珍しい銘の回国塔で、正徳四年(一七一四)に造立されています。
地蔵菩薩 は、 一部を欠損していますが文久年間(十九世紀)の造立のようです。

    おわりに
 福禄寿神と青蓮寺の参拝は、いかがでしたか? そして参拝後のご感想は?  今日の青蓮寺訪問のように、じっくりと参拝し参観してみますと、これまでは、ついつい見過ごしてきていた様々のことがらが、新たに浮かび上がり、 わたしたちに近寄ってきてくれるものです。そのことで、なにか新事実を『発見』したような、 『素晴らしい宝もの』をいただいたような、 そんな嬉しくありがたい気分につつまれるものです。それは、 この七福神巡りでいただく御利益のひとつと言えるのではないでしょうか。ありがたいことです。
 では、そろそろ福禄寿の寺・仏守山義国院青蓮寺に別れを告げて、次の札所『恵比須の寺・桂林山久昌寺』へ向かうことにしましょう。