布袋尊の寺・西方寺

    西方寺への道
  布袋尊を祀る結願の寺・梅田山西方寺は、観応元年(一三五〇・鎌倉時代)から天正元年(一五七三・室町時代)までの二百二十四年間にわたって、桐生領を統治した「後桐生氏」十代の領主の御霊を祀る名刹『桐生氏の菩提寺』です。所在地は梅田町一丁目二六六。
 毘沙門天の寺・鳳仙寺から、この名刹・西方寺へ至る道順は、大きくは三通 りあります。その第一は、最も近道なコースです。まず鳳仙寺本堂前から総門までもどり、総門前で左折して進み、次の十字路で再び左折しますと、北方へ五〇〇メートルほどで西方寺山門へ到達します。
 第二は、総門前では折れずに直進し、次のT字路で左折し、そこから一〇〇メートル少々歩みますと、第一のコースと合流しますので、そのまま直進します。距離は、どちらもほとんど同じです。
  第三のコースは、来たときの道(県道=主要地方道桐生・田沼線)まで戻って左折し、桐生女子高校の少し先から変則十字路の左側の道に入ります。そして、次の十字路でさらに左折して、西方寺山門へと向かいます。春のサクラの見ごろの時期でしたら、第一のコースの総門の次の十字路をそのまま直進して県道に入るのもいいでしょう。十字路から県道の間が、見事なサクラのトンネル、花吹雪のトンネルになってくれるからです。
 このほかにも、県道へ出て直進し、桐生女子高校を通過してから初めての十字路で左折するコースもありますが、いずれのコースをとりましても鳳仙寺から西方寺までは、1キロメートルそこそこしかありません。ですから、コースは皆さんの好みで選び西方寺へと向かうのがよいでしょう。西方寺山門では、珍しい二石六地蔵文字塔や老杉、そして日本一の高さを誇る西方寺十三重塔 (桐生塔) などが、訪れた皆さんを温かく迎えてくれるはずです。
 ところで、西方寺へ向かうそれぞれのコースでは、先述の県立桐生女子高校、オノサトトシノブ美術館や臨床眼科研究所等が建ち、その瀟洒な建物が、いっとき皆さんの目を奪うことと思います。また、桐生女子高校の校庭は、かつての桐生城(現在の市指定史跡・梅原館跡)外堀への取水用堀切りが走っていた所であり、また、ファミリー・レストラン「秀吉」の向かい側やや上手(かみて)ににある「セブン・イレブン」や秀吉駐車場の敷地は、由良氏の桐生領統治時代 (天正元年=一五七三〜天正十八年=一五九〇) の家老・横瀬勘九郎の屋敷があった所です。心して見ますと、桐生の歴史に関する別 の感慨が、それぞれに沸いてくるのではないでしょうか。

   布袋尊は大師堂脇に祀られる  
 西方寺の布袋尊は、高さ日本一を誇る桐生塔に向かって右手奥に見られる、大師堂脇の梅の木の隣りに祀られています。大師堂の周囲には、紅梅・白梅が植栽されていますので、三月初旬から半ば頃にかけて西方寺を訪れますと、布袋尊石像が、それらの梅花に包まれ映えて、 すばらしい風景をかもしだしてくれます。 そして、この季節が、布袋尊のあのにこやかな笑顔をもっとも晴れやかに感じさせてくれるときのように思われます。梅の名所・西方寺ならではの春の風景です。

   布袋尊は『円満』を授ける
 布袋尊は、唐末・後梁時代(十世紀頃)に実在した中国四明山の禅僧でした。名を「契此」といい、常に肥えた腹を露出し、日常用具を入れた布袋(ぬ のぶくろ)を背負い、杖を持って市中を歩いて回り、人の運命や天候を予知したと言い伝えられています。契此が、その肥満した体躯で常に大きな布袋を背負って歩いていたことから『布袋』の名が付けられたと言います。
 この庶民に親しまれやすい姿・形の布袋尊は、生前から弥勒菩薩の化身ともいわれて、人々にたいへん尊崇されました。しかし、七福神信仰では、弥勒菩薩の本誓(釈迦入滅後五十六億七千万年後に娑婆世界に出現して、一切衆生を済度する)にすがることや、運命・天候の予知などの化益を願うということに祈願の目的をおいてはいません。それよりも、布袋尊自身の円満な相を尊んで、「家庭円満」「夫婦円満」などの実現を願うという、温かな人間味の感じられる願望成就に大きな目的を置いているのです。
 西方寺の布袋尊に対面し、心を込めて両の手を合わせていますと、わたしたちの『円満成就』の願望を広くて深い大きなお慈悲でお聞き届けくださる----- そんな気持ちにさせてくださいます。

   スタンプは本堂回廊で
 布袋尊の参拝が済みますと、記念スタンプの押印ということになりましょう。参拝記念のスタンプは、本堂の庫裡寄りの回廊上に置いてある箱の中にありますので、押印料(百円)を納めて自身で押印しましょう。スタンプのデザインは、布袋尊の手にする団扇に「布袋尊」「桐生七福神」「西方寺」の文字が配されているものです。団扇の左下には小さく一冊の本が添えられています。

   西方寺の歴史をひもとく
 布袋尊の参拝が済み、記念スタンプの押印が済みましたら、西方寺の理解をさらに深めるための境内の拝観をしてみたいものです。
 その拝観に先立って、まずは西方寺の歴史の概要をひもといてみることにしましょう。
  創建は観応元年    伝えによりますと、安貞元年(一二二七)に実信房蓮生(じっしんぼう・れんじょう)法師の郎党の一人が、西方寺の前身である草庵を創建したとあります。蓮生法師という方は、鎌倉時代の源頼朝公の麾下で、下野国(栃木県)宇都宮城主・宇都宮弥三郎頼綱公のことです。
 頼綱公が俗世にあったときあらぬ疑いを受け、その事実の真偽を糾問されたために俗世に嫌気が生じ、郎党60人ともどもに仏門(法然上人の弟子になる。)に入ってしまいました。そして、この法師名を名乗られたのです。
 この蓮生法師の郎党の一人が、安貞元年(一二二七)ころ、この地に草庵を結んで念仏三昧の日々を送りました。このことから、この草庵創立の時期を「西方寺創建」としている文献があります。
 その後、この桐生地方に後桐生氏が出現し、初代領主・桐生国綱公が、観応元年(一三五〇)に檜杓山(ひしゃくやま・現在の城山)に檜杓山城(史跡・桐生城祉)を築きました。そのときに、併せて西方寺を一寺として開闢(かいびゃく)されました。
 国綱公が「入道人西」と称していたこともあって、創建された西方寺を当時の人々は、『人西寺』あるいは『御人西』と呼んで崇めたといいます。(多少の異説もありますが、大同小異のようです。)ところで、多くの文献は、郎党がこの地に草庵を創建した安貞元年(一二二七)を西方寺創建とはしないで、 「人西寺」が創建された観応元年(一三五〇)を「西方寺創建年」としています。このことから、 本冊子も 『観応元年(一五七三)創建』 説を取ることにしました。
 桐生市史では「寺伝」として、国綱公創建時よりも四十四年遅い応永元年(一三九四〉を創建年としています。また「峻応令山和尚行録」では明徳三年(一三九二)と記録されています。明徳三年は、西方寺が臨済宗に改宗された年です。

   末寺は二か寺
   この名刹・西方寺と本末の関係にある寺院は、 現在は梅松山渭雲寺(梅田町)、 林陸山長谷寺(梅田町)の二か寺です。が、歴史のある寺院だけに、かつては鶴齢山棲松寺(梅田町、お堂在り)、金剛山崇福寺(菱町、お堂在り)、普門山慈眼寺(梅田町)、今泉山東照寺(東)、延命山広福寺(鹿沼町)を加えた計七か寺がありました。今は渭雲寺・長谷寺以外の五か寺は、すべてが廃寺となってしまいました。

    宗派・ 山号も二通り

 西方寺の宗派は臨済宗です。臨済宗は唐時代 (十世紀ころ) の中国の禅僧・臨済義玄師が開宗された宗旨で禅宗の一派です。「厳しく鋭い宗風をもち、公案の工夫による修行を重視する宗派」だと言われています。日本へは、入宋した明庵栄西禅師が鎌倉時代に伝えています。
 西方寺は当初「浄土宗」の寺として創建されましたが、深く仏法に帰依し禅学に通 じていた桐生氏第三代領主・桐生豊綱公が、明徳三年(一三九二)に臨済宗に改宗されたものです。
 現在の「梅田山」の山号は、明治時代を迎えてからのものですが、観応元年(一三五〇)の創建時から、明治二十二年(一八八九)に至るまでの五百四十年近くは、 「宝樹山」の山号を用いていました。

   ご本尊は県の重要文化財
 ご本尊は『木彫阿弥陀如来座像』で、昭和33年3月22日に県の重要文化財に指定された立派な尊像です。像高は59センチメートルという小さな像なのですが、参拝者には実際以上の大きさ、雄大さを抱かせるようです。鎌倉の大仏を思わせる雄大な彫出が、そう感じさせるのでしょう。
 胎内には、  大日本国上州桐生郷宝樹山西方寺住持禅興天叟中樹和尚大旦那       
佐野大炊助助綱択吉日良辰彩色之仰願山門繁昌福   
増長災障吉祥如意斯 永正竜集辛巳(十八年・一五二一)四月 の墨書銘が残されています。

    開山は円融禅師・開基は桐生領主
  先述しましたように、西方寺は初め浄土宗で創建され、途中から臨済宗に改宗されていますので、開基が国綱公・豊綱公の二人になります。
   ◇浄土宗時代  開基 桐生初代領主・桐生国綱公   開山 勅謚法光円融禅師峻翁令山和尚
    ◇臨済宗時代  開基 桐生第三代領主・桐生豊綱公 《 開山 》 開山・令山和尚は武蔵(埼玉 県)秩父郡の人で、14歳で了機道人に従って修行しました。その後、相州(神奈川県)におられた抜隊勝和尚のもとに参謁して問答数転した後退去し、深山に入り多くの人々にその化を与えました。後に金峰山に籠もり、十年間にわたって大般 若に閲しました。
 やがて武州に帰り、初めて入院して八千余人に仏の道を説きました。和尚が開山となられた寺は、西方寺・応円院・報恩寺など九か寺に及びます。和尚の行動範囲は、武州を中心にして甲州(山梨県)、上州(群馬県)、野州(栃木県)に及び、その徳望を慕って集まる僧侶は、常に一千人に及ぶほどだったと言われます。後に、その徳の高いことが朝廷にまで達し、入寂後に法光円融禅師の諡号が贈られました。 《 開基 》 開基・国綱公は後桐生氏の始祖で、桐生城築城・下瀞堀掘削(現在はコロンバス通 りに変容)・高津戸城攻略等を行って、桐生氏の基礎固めを達成させた領主です。また、西方寺を臨済宗に改宗させた第三代領主・豊綱公は、佐野から桐生家へ婿入りする際に菱の土地を持参して、桐生氏を百三十騎の家柄にまで高めた領主でした。しかも勢力を桐生川左岸にまで広げましたので「桐生家再中興」と称えられた領主でした。

    歴代住職は二十五代目
  六百五十年になんなんとする西方寺の豊かな歴史と法燈とを、確かな足取りで守護し続けて来られた歴代の住職は、現住・天利大道師で二十五代目となります。
 しかし、この歴代住職は、すべて臨済宗に改宗されてからの住職で、それ以前の浄土宗時代は、二度の火災(寛文年間・一六六一〜一六七二、文政六年・一八二三)で資料や文書多数を失い、開山・法光円融禅師以外の住職は不詳となっています。

 つぎに臨済宗・西方寺の歴代住職名を記録してみます。

開  山  法光円融禅師(峻翁令山和尚)    
第 一世  万 古 梵 亘 禅 師 第 
二世 前禅興天叟中樹和尚    
第 三世  雷渓知谷和尚(西堂)    
第 四世  知 叟 玄 格 和 尚
第 五世 万 機 玄 量和 尚
第 六世 自 天 祖 心 和 尚    
第 七世  才 英 祖 俊 和 尚    
第 八世  可 庭 宗 樹 和 尚    
第 九世  青 雲 祖 洞 和 尚    
第一〇世  文 竜 祖 玉和 尚    
第一一世  中興 奇元太山和尚    
第一二世  参 栄 祖 達 和 尚    
第一三世  苔 岩 祖 青 和 尚    
第一四世  大 円 祖 玄 和 尚    
第一五世  竜 翁 祖 呑 和 尚    
第一六世  大 梅 東 林 和 尚    
第一七世  涼 道 明 葯 和 尚    
第一八世  笑 翁 明 門 和 尚    
第一九世  瑞 齢 元 鳳 和 尚    
第二〇世  藍 竜 古 象 和 尚           
第二一世  大 典 宗 徹 和 尚    
第二二世  竜 巌 恵 海 和 尚    
第二三世  大 行 自 得 和 尚    
第二四世  中興 沢洲徳隣和尚    
第二五世  天 利 大 道 和 尚
第二六世  天 利 秀 峰 和 尚(現住)

  歴代住職の墓所は、墓地上段の中央(史跡・桐生氏累代の墓と並ぶ)にあります。そして、その地から今も、発展する西方寺の様子と世の中の移ろいを静かに見つめ続けられておられます。
  寺宝も豊富に  寺宝は、ご本尊・木彫阿弥陀如来座像を筆頭に、桐生氏歴代の大英主と称えられる第九代領主・桐生大炊介(助)助綱公ご使用の鐙(あぶみ)をはじめ、桐生家七代の位 牌、大梵鐘、古菩薩像、古文書多数等が挙げられています。 《 ご本尊 》 前述のご本尊の欄を参照してください。

《 桐生家七代の位牌 》
 桐生家七代の位牌は高さ74・5センチメートル、幅16・4センチメートルある大きな古位 牌です。これに、 青岩寺殿蟠山竜松居士   松根院一器徳眼居士 西方寺殿一山天心居士  長泉庵殿竜岩性白大禅定門 宝徳庵殿頂秀実山居士 碧雲庵殿松岩正根居士 竜睡軒妙岩道音大禅定門 の法名が記されています。
 この法名と俗名の関係については、これまでに諸説ありましたが、西方寺では長期間にわたっての地道な調査・研究を重ねて、  西方寺殿=三代・豊綱公、 青岩寺殿=七代・親康公、 松 根 院=四代・義綱公、 長泉庵殿=六代・在義公、 宝徳庵殿=五代・正綱公、 碧雲庵殿=八代・重綱公、 竜 睡 軒=九代・助綱公、 と判明させています。

《 大炊介公ご使用の鐙 》
  桐生氏の最盛期を築き挙げ、名君の誉れ高い第九代・桐生大炊介助綱公が愛用された鐙です。時の流れには勝てず、かなり古びてはいますが、随所に細かな装飾の彫り物が施されていた跡を残していて、 当時のすばらしさを彷彿させています。
 この鐙を見ていますと、戦国時代の騒乱の世相と、その騒乱の時代を生き抜くために、しばしば出陣していったであろう大炊介公の勇姿が瞼に浮かんできます。

《 大梵鐘 》
 昭和44年に明治百年記念として、東京芸大・香取正彦教授によって鋳造された大梵鐘です。 梵鐘の直径は、 およそ90センチメートル、 重さは一、一二五キログラムで、富山県高岡市で鋳造されたものです。
 この梵鐘は「慈愛の鐘」と名付けられ、次の銘が刻まれています。 南 無 釈 迦 牟 尼 佛    梅田山西方禅寺鐘銘并序    法燈派下禅刹上州桐生西方寺之洪鐘者宝永二年初懸也 爾来二百四十年遠近幽顕聞者破   長夜夢覚昏黴 雖然今次大東亜戦爭中全國梵鐘大半化作銃砲変為千戈 當山亦不得免其   難焉 戦或己二十数年境域尚蕭然 信久憂法器欠典 今也再鋳議成而當住大道和尚来請 銘乃為銘曰 閇外十里 響震四隣 西方梵刹 旧鐘驚人 法器厥處 再懸思頻  紅爐百錬 新鋳万釣 朝撞一念 減除業因 暮撃誓願 解脱苦輪  佛日増耀 頓越根塵 功徳無限 普利兆民 昭和四十四己酉年五月  建長素堂謹撰印印   西方禅寺廿五世 大道秀雄代  鋳匠  香取正彦  鐘銘は、建長寺管長・湊素堂老師の撰文および自筆に依ったものです。なお鐘楼の天井板には、 撞出新三百貫鐘 鯨音遠響四方峰 八州路上返聞者 定是同熊谷老農   昭和四十四年乙酉年十一月九日 建長 素堂書   幾世経て変わらぬものは御佛の    法のひゞきと わが母の声    正當明治百年 西方廿五世 大道書 の墨書が見られます。

《 古仏・菩薩像 》
 法量109センチメートルの鎌倉時代の木像で、菩薩形をしています。しかし両手が失われているために、観世音菩薩像か勢至菩薩像かは定かでありません。鎌倉時代、蓮正法師が念仏張行していたころから、すでに礼拝されていた仏像ではないかと、歴史研究者の間では推測されています。

      境内地を拝観する
 境内地にはたくさんの拝観対象があります。時間の許す限り、ぜひ寺域内を巡って拝観することをお勧めします。  次に主な拝観対象を紹介してみましょう。なお、紹介は順序不同ですので、『西方寺の寺域概要』を参照の上、順次拝観してください。
   本  堂
  文政六年(一八二三)に全焼した本堂は、大正十年(一九二一)に至って再建されました。第二十四世・沢州徳隣和尚のときです。現本堂は、さらに昭和40年代に大改築された建物で、庫裡・鐘楼・大十三重塔などともよくマッチし、歴史豊かな西方寺の中心的建築物として位 置づけられています。
 本堂内には、ご本尊・阿弥陀如来像(県指定重要文化財)を安置しているほかに、臨済宗宗祖・臨済禅師木像、西方寺開山・勅謚法光円融禅師木像、歴代住職御位 牌をはじめ、多くの仏像、檀家位牌等が祀られています。また建長寺管長・湊素堂老師篆書による『桐生殿』扁額はじめ、計四点の扁額も収められています。
  西方寺庭園
  本堂の裏手(拝観には、本堂の向かって左側から回り込みます。) に見事な庭園が広がります。西方寺の顔のひとつとなっているこの庭園は、昭和42年に完成したものです。鑑賞の際には「絶対に庭園内へ立ち入らない」ことを守りましょう。 市指定史跡・桐生氏累代の墓   西側墓地内の小高い位置に見られます。墓地中央の階段を登り詰めた左側の層塔・五輪塔群が桐生氏累代の墓所です。右端の墓所内唯一の層塔が初代・国綱公で、順次左へと歴代領主の五輪塔が並び、左端が十代目・親綱公の墓となっています。
 国綱公の層塔は、県内では数少ない石塔のひとつであり、鎌倉末期から南北朝時代の造塔と鑑定されている、県内でも貴重な石造物です。
  大  師  堂
布袋尊石像の隣りに建てられている小堂が大師堂です。この大師堂は、かつては近くの山上にあり在家信者が奉祭していましたが、後に西方寺境内の現在地へ遷されたと伝えられています。  堂内には、弘法大師像と布袋尊像が安置されています。
釈迦三尊石仏
  墓地入り口の近くに在る「無縁仏群」の前列に、石仏・釈迦三尊仏が安置されています。二十余年前に地中から発掘された石仏で、この三尊仏は市内唯一のものです。  無銘のため造立年は不明ですが、地中に埋まっていた期間が長いので、かなり新しく見えます。でも、江戸時代の造立ということは間違いないところでしょう。
 上部に瑞雲に座す釈迦如来像を刻出し、下部に獅子座に座す文殊菩薩像と象座に座す普賢菩薩像を陽刻しています。この社歌三尊石仏は、後背の反りの特徴からみて禅宗系の石仏と見られています。
庚申石幢
  釈迦三尊石仏の近くに、灯籠の火袋部分に六体の地蔵像を陽刻している石造物があります。珍しい『庚申石幢(こうしんせきどう)』です。  竿石部分に、  干聡貞享五未◇      奉 供養庚申幢 八 月 良 日 の銘があります。この石幢の建立された貞享五年(一六八八)の前年には、犬公方で有名な将軍・綱吉の「生類憐れみの令」が出されています。
 なお、この石幢には「地蔵像の目の下にたまった朝露を目につけると、やん目(流行性角結膜炎)が治癒する」という俗信仰があり、昔は結構栄えていたと伝えられています。 十三重塔
  先述した日本一の高さを誇る『桐生塔』がそれです。十三重塔とは、仏陀の舎利・遺髪・聖遺物などを納める塔で、釈迦の慰霊碑、仏教のシンボル的な意味合いをもちます。 西方寺の十三重塔は、7メートル四方の基礎上に建てられており、高さは20メートル、重さは約百三十六トンあります。これまでの高さ日本一の塔は、京都宇治の河原の十三重塔で約15メートルでしたから、 桐生塔は群を抜く高さと言えます。この塔は平成4年11月に落慶法要が行われました。 二石六地蔵文字塔   西方寺訪問時に老杉とともに、皆さんを迎えてくれた石造物がそれです。
 法性地蔵菩薩  陀羅尼地蔵菩薩  宝印地蔵菩薩  法陵地蔵菩薩  鷄兜地蔵菩薩   地持地蔵菩薩 の文字が二基の塔に刻まれていて、 大場間(現在の大浜)村  寛延二巳(一七四九)二月十五日 涼道代 の造立年等が残されています。
記念碑など
  境内に記念碑が多いのも西方寺の特色です。桐生塔近くの『桐生塔由緒記(平成四年建立)』、大師堂から無縁仏群にかけて並ぶ『八木昌平翁顕彰碑(昭和五十一年建立)』『本堂再建記念碑(大正十年建立)』『霞谷先生墓碑(昭和六十三年再建)』『梅林記念碑(大正十年建立)』がそれです。
 郷土史に功績の大きかった八木昌平先生や洋風絵画家・漢字活字発明者・写 真師として著名な島霞谷(かこく)師、日本最初の女性写真師・島隆(りゅう)女史等々に、碑を通 じてとはいえ対面できるのも素晴らしいことです。表裏の碑文をじっくりと記録してみるのもよいのではないでしょうか。
島霞谷・隆夫妻の墓
  西方寺墓地の中段あたりに位置する「島家墓地(階段左側)」に島霞谷・隆夫妻の墓が見られます。
   元亀院享誉秀別居士(霞谷=明治3年11月1日没、 43歳)    吩月院澄光歌林大姉(隆 =明治32年2月4日没、76歳) の法名が墓碑面に刻まれています。
 近年、とみに全国から注目されている霞谷師、脚光を浴びている隆女史。ぜひとも墓前に詣でてみたいものです。 キリシタン墓碑  霞谷・隆夫妻の墓から少々上段の階段右側に、○に+の文様が刻まれた石祠が見られます。この石祠は、十余年程前に「隠れキリシタンの墓」として報道されたことのある石造物です。○の中の+(クルス)が、そのことを示しているというのです。一度、皆さん自身の目で確かめてみてください。
おはま梅と西方寺養老墓地への階段を上るとすぐの右側に、二本の梅の木が見られます。手前の木が『おはま梅(白梅)』で、上段が『西方寺養老(紅梅)』です。
 大正時代は、「おはま梅」から取れた梅の実が『桐生の大和梅』と名付けられ、東京神田の青果 市場へ大量に出荷されていました。味の良さはもちろんですが、「実の器量がよい。」ということで、市場では殊の外に評判が良かったと伝えられています。
 大正時代にはたくさん見られた人気の「おはま梅」も、現在は、わずかにこの一本しか残っていないという状態になっています。実生からでも幼木を育て、その本数を増やす手立てが望まれているようです。
「西方寺養老」は、この付近にしか見られない特別な品種で、漬物用としては最高級品だといわれています。明治20年頃は、西方寺の全山に四〇〇本くらいも植栽され、当時の観梅時期は実に見事な風景が展開されていたといいます。西方寺が今もなお『梅の名所』と言われる所以は、梅の木が多い境内だけではなく、その頃の風景が人々の脳裏に強く残されていることにもあるようです。境内に今も残る紅梅は、そのほとんどが「西方寺養老」です。
 観梅時期に西方寺を再訪問して、「白梅のおはま梅」、「紅梅の西方寺養老」の 『美』 を見比べてみてはいかがでしょうか


     大力和尚伝説も息づく
 西方寺には、豊富な史跡・文化財等のほかに、楽しい「大力和尚」伝説も残されています。それも、三話にわたる伝説です。その「大力和尚」伝説の概要をここに紹介してみましょう。
  本堂普請のこと   むかしのこと、西方寺で本堂の改築がありました。その改築中、棟木に使う大木を裏山から切り出す必要が生じましたので、本堂の棟木にふさわしい大木を切り出し、境内まで引いてくることになりました。
 大木が切り出されますと、檀家の人々が大勢集められました。大木を境内まで運ぶためでした。集まった大勢の人々は、大木のあちこちに綱をかけ、掛け声勇ましくいっせいに引いてみました。が、なんと大木はピクリとも動きません。人々は呆れるやらガッカリするやらで、手をこまねいて考え込んでしまいました。すると、そこへ和尚さんが、 「皆の衆、ご苦労さん、ご苦労さん。」 と言いながら、ニコニコ笑顔で登って来ました。
 人々から、大木が重すぎて動かせないことを聞かされますと、和尚さんは、 「どれどれ。それじゃあ、わしがちょいと引いてみようかいな。」 と言いながら、大木の綱を肩にかけました。
 檀家の人々は、その様子にびっくりして、 「こんなに大勢で引いても動かない大木ですよ。いくら何でも和尚さん一人じゃあ・・・・。」 と、和尚さんの無茶を押し止どめようとしました。 「なあに、できるかどうかは引いてみなけりゃわからんものだよ。皆の衆、さあ、どいたどいた。」 と言いながら、人々の制止も気に止めず、和尚さんは渾身の力をこめて大木を引き始めました。
 はじめは、やはり動きそうにもありませんでしたが、何度か方向を変えては引き回しているうちに、さすがの大木も少しずつ少しずつ動き始めたのです。人々は、和尚さんの余りの大力に驚いてしまい、声も出ませんでした。
 やがて、大木は無事に境内まで運び込まれました。大木は、大工さんたちの手で棟木にされ、立派に上棟されました。
 次いで屋根のカヤ葺き作業が始められました。本堂の木組みの前に足場が組まれ、長いハシゴがかけられて、人夫たちがカヤの大束を一束ずつ肩にかついで、用心深くハシゴ伝いに屋根に運び上げ始めました。
 そこへ和尚さんが、今度は「工事の様子はいかに」と、現場に姿を現しました。そして、人夫たちのカヤ束運びの作業を目にすると、 「おやおや、これは大変な作業だのう。そんなことをするよりは、下からほうり上げた方が楽ではないかな。」 と、口をはさみました。 「そりゃあそうでしょうが、このカヤ束は特に大束なもんで、わしらが、どんなにムキになって投げてみたって、とうてい軒端まで届きませんや。わしらの力じゃどうにもなんねえですよ。たいへんでも、一束一束運び上げるより外に方法がねえんですよ。」 と、人夫たちは口々に言い張りました。
 和尚さんは、その言葉を聞くと、 「そうかい、そうかい。そりゃあ、ご苦労さんなことだのう。それじゃあ、ちょいとわしが投げてみようかいな。少しでも皆の役に立てればいいからのう。」 といって、大きなカヤ束を軒端に向かってヒョイヒョイと投げ上げました。まるで軽いワラ束でも投げるように、たちまちたくさんのカヤ束を屋根の上に投げ上げてしまいました。人夫たちは、またも、ただただ感心して見とれているばかりでした。
  江戸へ旅立ちのこと  ある時のことでした。とある用事を思いついて和尚さんは、旅支度もそこそこに江戸へと旅立ちました。梅田を早立ちしたせいもありましょうが、足の大変早い和尚さんでしたので、お昼ちかくには、もう熊谷の宿にはいっていました。そこで、大変景色のよい堤防のそばにあった茶店に寄って、昼食をとることにしました。
 和尚さんが縁台に腰をおろすとすぐに、茶店の主人が、 「いらっしゃいませ。」 と、お茶を持って顔を出しました。そこで和尚さんは、 「ご主人、今は何刻(なんどき)ころかのう。」 と、主人に尋ねました。
 すると、主人は、 「そう尋ねられましてもなあ。実は、今日はどうしたわけか、上州・西方寺さんの鐘が朝からまったく聞こえて来ませんでな。わたしにゃ刻(とき)がさっぱり分かりませんで・・・・・。 そろそろお昼になるころかとは思いますがな。」 と、困ったような顔をして答えました。
 これを聞きますと、和尚さんは、 「西方寺の鐘は聞こえんはずですよ。鐘をつく本人が、ここに来ていますでな。 と言って、茶店の主人と大きな声で笑い合いました。
  力士と力比べのこと
  この西方寺の和尚さんの大力の噂が近隣に広まり、やがて江戸にまで伝わっていきました。そして力持ちを自認する江戸の力士たちの耳にも入っていきました。  中でも、自他共に力持ちと噂されている力士の某は、 「西方寺の和尚って、どんな和尚かいな。とにかく一度力比べをやってみたいもんだ。」 と、和尚との手合わせを楽しみにするようになりました。
 ですから、相撲巡業がハネると、もう矢も楯もたまらず、江戸からはるばる上州桐生までやって来てしまいました。そして、西方寺の下までたどり着くやいなや、 「勝負は、まずは機先を制することだ。ひとつ和尚の度肝を抜いてやれ。」 とばかりに、近くの竹やぶの中から一本の竹を抜き取り、それをねじってタスキがけにすると、まことに勇ましい姿で西方寺へと乗り込んでいきました。
「頼もう!。」 と、力士が玄関で大きな声を張り上げると、しばらくして、中から小さな和尚さんが、ニコニコしながら出て来ました。そして、 「なんの御用かな? いずれからおいでなされた?。」 と、尋ねられました。
 竹のタスキをはずし、ドシンとその場に置いた力士が、 「ワシは江戸から参ったものじゃが、和尚はおいでかな。」 と聞くと、 「わしが、この寺の住職じゃが・・・・・。 どのようなご用件で?」 と、かさねて尋ねますので、力士は和尚さんに改めて力比べを所望しました。
 すると和尚さんは、 「力比べなどとは思いもよりませぬ。わしは、この寺の住職じゃ。大力などもともとござらん。あなたのお聞き違いでござりましょう。」 と言うのです。 「・・・・・・・・・・・・・。」 そして、さらに、 「それにしましても、わざわざ江戸からおいでになられたのは、きっと仏のお導きでございましょうによって、このままお帰しするわけにはまいりませぬ 。ましてや長旅。疲れておりましょうし、のども乾いておりましょう。せめて、お茶など進ぜるによって、まずは庫裡に上がらっしゃれ。」と、付け加えました。
 和尚さんのこの答えに、はるばる江戸から飛ぶようにしてやって来た力士は、ガッカリしてしまいました。でも小さな和尚さんの姿を目のあたりにしますと、 「たとえ和尚が力持ちであろうとも、この体格では大したこともあるまい。残念だが、お茶でも御馳走になって帰るとしようか。」 と思い、和尚さんに勧められるがままに庫裡に入りました。
 間もなく和尚さんが、お茶とお茶受けのクルミの実をもって現れました。そして、 「さあ、遠慮なさらずに召し上がれ。」 と、勧めました。  しかし、お茶はとにかくとして、クルミだけは、力自慢の力士にとっても、どうしようもありません。クルミを手にして、 「はて? これはどうしたものかな。」 と思いながら、力士は何げなく和尚さんの手元を見ました。なんと、和尚さんは、親指と人指し指の二本の細い指で固いクルミを捻りつぶしては、中の実をいかにも美味そうに食べているではありませんか。
 力士も、 「それならば・・・・・」 と、 和尚さんのまねをしてクルミをつぶしてみました。が、石のように固いクルミはびくともしません。 それなのに、和尚さんは、相変わらず実に無造作にプツリ、プツリとクルミを割っています。
 その様子に、力士は背中を冷や汗が流れるのを感じました。、 「これは、 たいへんな力だわい。」 と思うと、今度は柔和な和尚さんの姿が、 ソラ恐ろしくなってきました。
 力士は、 とっさに座布団から飛び降りますと、 「和尚殿、恐れ入りました。とてもワシごときの遠く及ぶところではありません。先程までの数々のご無礼、なにとぞお許しくだされ。」 と、畳に手を突いておわびをすると、ソソクサと帰り支度を整えて、江戸へと帰って行きました。 以上が「大力和尚」伝説三話です。いかがでしたか? このような実に楽しい、実にユニークな伝説が、現在もなお西方寺に伝承され、鮮やかに息づいていてくれるということは、本当にうれしい限りです。

お  わ  り  に
 布袋尊の寺・梅田山西方寺の参拝はいかがでしたか。西方寺には山門脇にも書体の変わった庚申塔(青面 金剛塔も含む)が祀られていますが、紙数の関係から、ここでは紹介できませんでした。石仏に関心をおもちの方は、忘れずに対面 してみるとよいと思います。
 西方寺は、桐生氏菩提寺という名刹であり、永い歴史と法燈とを誇ります。それだけに四季を通 じて随所で心なごませる風景・雰囲気を味わうことができます。それだけに、きっと皆さんを「何度尋ねてもよい。」という気持ちにさせてくれたことと思います。中でも梅・フジ・サクラの開花期は、西方寺が、ことのほかすばらしい自然美に包まれることができる時期と言えましょう。  これで、桐生七福神のお寺巡りはゴールということになりましたが、振り返ってみますと、単に七福神巡りが完了したというだけではなく、同時に桐生のお寺の素晴らしさ、ふるさと桐生の素晴らしさということも、強く感じとっていただけたのではないでしょうか。そして、きっと明日からの生活のために新しいエネルギーと、潤いとを皆さんがそれぞれにつかみ取ってくださったのではないでしょうか。
 長い間の桐生七福神巡りにお付き合いをしていただいたことに、改めて感謝を申しあげ、おわりの言葉とします。お世話様でした。     平成八年五月一日  《文責》 清  水  義  男

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