新「八木節」心一つに 新町縁起の口説街の成立、歌詞に
桐生市元宿町の郷土史家、森村秀生さん(61)が、自身の研究を基に桐生の成り立ちを物語る、桐生八木節の新しい歌詞を考案した。八木節には「国定忠治」「五郎正宗孝子伝」など様々な歌詞が伝わるが、町並み形成の歴史を伝えるものは定着していない。森村さんは「震災で地域のつながりの大切さが叫ばれる中、市民の心が一つになるきっかけになれば」と話している。
作成した歌詞は「桐生新町縁起の口説」という題で、全10番からなる。約400年前に、現在の桐生市本町と横山町からなる桐生新町がつくられた経緯などが歌われている。
森村さんは2004年、自宅で営んでいた自動車部品販売業を辞め、妻の悦子さん(57)と共に、以前から興味のあった桐生の町並みの研究を本格的に始めた。町を歩いたり、古文書など文献を読みあさったりして徐々に知識を深めていった。
その中で、桐生が徳川家大久保長安の指示によって開発されたことがわかった。町が縦900間(約1636メートル)、横90間(約164メートル)の大きさで、150間(約273メートル)ごとにきれいに区画されていたという。
さらに「徳川家康が亡くなった時はヽ御霊は先祖の地と考えられる世良田東照宮(太田市世良田町)から霊山の男体山(栃木県)に向かうと考えられており、その線上に位置するのが桐生だった」という結論に至り、「当時荒れ地だった桐生が重要拠点とされ、整備が進んだ」とみる。
研究の過程で、成果を八木節の歌詞に残したいという思いが高まり、作詞を決意。森村さんは「ストーリー性を持たせる中で、韻を踏む言葉選びに苦労した」と振り返る。丸2年ほど打ち込み、昨年10月頃に完成した。
「いっぴゃく五十を町割りとなし 堀にゃ尾車あまたと連ね」「桐生織物由来を説けば 慶長年間戦さの折りにゃ」今夏には地元の八木節愛好会に歌ってもらい、反応も上々だったという。
桐生八木簡連絡協議会の阿部建治会長(70)は「桐生の歴史をよく調べていて、歌詞の語呂がよく、町を元気にする取り組みだ」と評価。森村さんは「若い人たちにも、新しい八木節をどんどん歌ってもらい、故郷の成り立ちを知ってほしい」と願っている。
桐生新町縁起の口説
1、 ハーーーー
1 今を去ることお江戸のはじめ
2 遠き昔のゆめ物語
3 お聞きくだされ荷物にゃならぬ
4 町を起こせし恩人さまの
5 せめて供養か功徳と願い
6 だんべ混じりの節にはあれど 女性一一お国なまりの節にはあれど
7 御免こうむり読み上げまする2、 ハーーーー
1 桐生まちなか通りはつじよ(丁子)
2 かみにゃ天神下手にゃ御門
3 よこにゃ御陣屋ちょこんと付けて
4 いっぴやく五十を町割りとなし
5 堀にゃ尾車あまたと連ね
6 絹のきものにゃ桐げたはいて
7 織姫しやなりと行かいまする3、 ハーーーー
1 桐生織物由来を説けば
2 慶長年間戦さの折りにゃ
3 ときの御頭大久保様は
4 新田徳川戦勝いのり
5 源氏ゆかりの白ら旗織りて
6 恐れ多くも家康様に
7 御用めされとはたたて奉る4、 ハーーーー
1 立つる御旗の雄雄しきさまは
2 六十余州の天下を分ける
3 戦さ兵士の力となりて
4 わずか一日戦さの果てにゃ
5 ついに東軍天下をとりて
6 挙がる勝どき太平開< (下がる)
7 挙がる勝どき太平開く (上がる)5、 ハーーーー
1 やがて天下は葵の御世と
2 成りて栄えてふくべは枯れる
3 織りて錦は徳川様の
4 おぼえ目出度く吉例の地と
5 天下御免の誉れの里に
6 なりてますます目出たき町と
7 桐生新町さかえてござる6、 ハーーーー
1 桐生新町繁昌のほどは
2 京や都のにぎわいみせる
3 町を割りし恩人様の
4 大野尊吉 代宮様と
5 あまた町衆の願いは—つ
6 町のさかえとわらべの笑顔
7 とわに繁昌このにぎわいを7、 ハーーーー
1ひとの栄華も浮世のまま
2 大波小波も押し寄せまする
3 栄華きわめた大久保様も
4 時の流れに押し流されて
5 無念とどめし落花となりて
6 せめて供養のひと華なりと
7 たむけまつらむ恩人様へ8、 ハーーーー
1 桐生新町おかしら様の
2 町に降りたる災いすべて
3 一人受けての代宮様は
4 おのが命に代えゆるなれば
5 町を護れと身を投げいだし
6 せがれ共々刑場の露と
7 なりて町衆の幸せ祈る9、 ハーーーー
1 人情厚いは上州かたぎ
2 義理に堅いは新町かたぎ
3 桐生新町うけたる恩の
4 けして忘れぬそのいしずえを
5 絹の織物おり成す町と
6 なりてわらべの手踊りさえも
7 やがて八木節音頭となりて10 ハーーーー
1 長き口上も是までにして
2 あまり長いは嫌われまする
3 名残惜しいがお後がよろし
4 長き旅にはこの節うなり
5 旅の荷物は軽ろきになされ
6 伴につれるはハ木節音頭
7 上州名物ハ木節音頭桐生新町縁起之口説 解説
2 桐生まちなか通りがつじよ-------桐生新町の公道は四辻(つじ)ではな<丁辻(つじ)であった。
* 江戸時代辻斬りとは、被害者の左の辻より飛び出して襲う犯罪の事であった。いっぴや<五十を町割リとなし----桐生新町は長さは九百間、幅九十間で計画的に創られた。
その九百間の町を行政区画として正確に六等分(百五十間)して創られた。
- 尤も、浄運寺のある六丁目は、人の数を基本とする行政区画において、不利な為、百五十間より数間長<なり、その数間分を五丁目と四丁目が補っているため、百五十間より数間分短く出来ている。
堀にや尾車あまたと連ね---------桐生の町の両側の堀には多<の水車が連なり回っていた。
3、慶長年開戦の折にや-------関が原の合戦
ときの御頭大久保様は--------由良の領地(桐生も含む)は、徳川の領地となり、大久保長安(大官の総元締め御頭様)の管理地となった。
新田徳川戦勝祈り--------------徳川家の先祖の地は、三河ではなく新田源氏の地である。即ちこの東毛の地由良の領地が祖霊の地である。(世良田の東照宮)源氏ゆかりの自ら旗織りて----平安時代の源平の合戦の時より、平氏は赤旗、源氏は白旗が旗印である。源氏の白旗は、由良の領地で織られるのが、最もふさわしいのである。
* NHKの紅白歌合戦もその例である。恐れ多くも家康様に御用めされと旗奉る------桐生の地で白旗織らせることを命じられるのは、大久保長安ただ一人でありそれを実行したのが大野尊吉である。桐生地方で関ヶ原の合戦の情報を手に入れることが出来るのは、彼らだけである。白旗が届けられたのは、東軍(徳川軍)の集結地小山であろう。
5、成りて栄えてふくべは枯れる-----ふくべ(ひょうたん)豊臣家の旗印は千成ひょうたんである。
おぼえ目出度<吉例の地と--------源氏ゆかりの白旗が関が原の合戦で使用され、徳川軍が勝利したことにより、吉例の地と言われ、特別の扱いがあった。6、大野尊古代宮様と-----------大久保長安により桐生に派遣され、桐生を直接支配した有能な代官様。
7、ひとの栄華--------恩人様へ------大久保長安は、日本中の金山、銀山の管理を任されていた。そのため余剰の金、銀が大量に彼の手元に保管されていた。
慶長18年4月25日大久保長安は突然に死んだ。
遺体はいったん墓に葬られたが、後日不正ありとして、暴棺斬屍の刑になった。8、町に降りたる災いすべて------------江戸時代始めの頃の刑法はいまだ整備されておらず。過去の習慣がおきてとして行なわれていた。刑の重軽は支配者により左右された。
連座の掟は厳しく実行され、大久保事件でも関係者多数が犠牲になった。
大野尊吉事件も連座の掟の犠牲になったのである。* 藤沢周平の小説「蝉時雨」と同様な事件がこの桐生の地にもあったのである。上意により捕らえられた人はもちろん、家族、周辺地域の人々にも逮捕の理由など一切伝えられぬままに事が進められていく為に。事の噂は、興味本意になり、真実は隠されてしまう