祥 雲 寺 の 概 観

祥 雲 寺 を 概 観 す る
瑞龍山祥雲寺(以下、祥雲寺と表記します。 ) は曹洞宗の寺院で、桐生市境野町六丁目二六八に所在します。(所在地地図を参照してください。)境内地面
積三千二百六十平方メートル(九百八十八坪)内に、本堂、庫裡会館、鐘楼、山門、その他の伽藍や墓地、駐車場等を有しています。
整美されたわたしたちの菩提寺・祥雲寺・・・・・ この祥雲寺をさらに理解するためには
◇お寺は、いつごろ草創されたのか。
◇開基は、 どなたなのか。
◇開山は?
◇ご本尊は、どういう仏様なのか。
◇伽藍の様子は、どうなのか。
◇寺宝、建立物には、どういうものがあるのか。
◇お寺には、どんな歴史があるのか。
などなどについて、まずは概観してみることが必要になりましょう。 このほかにも、
◇曹洞宗というのは、どういう宗派なのか。
◇曹洞宗を広められた大師さまは、どういう方なのか。
◇本山は、なんという寺院で所在地はどこなのか。 といったことなどの理解も必要ですが、これらについては、次の『宗旨・曹洞宗』の項で記述することにします。
開創は慶長三年 天正十八年(一五九〇)のことでした。 豊臣秀吉君の天下平定のあおりをくって、桐生領主・由良国繁君は桐生領を召し上げとなり、禄高を三分の一に減じられて常陸牛久(現在の茨城県牛久市)へ転封となってしまいました。
そのため家臣の多くは桐生の地に土着せざるを得なくなりました。その家臣群の中で境野村に土着した武士がおりました。堀口領(現・伊勢崎市堀口町)と下広沢村(現・桐生市広沢町六丁目周辺)を領していた高橋丹波守橘英元公でした。
英元公は、由良家が牛久へ転退すると領地の堀口村に帰り、日本回国の旅をした後、境野村に立ち戻り、土着して「境野開拓」に励みました。その開拓が順調に進み始めたころの慶長三年(一五九八)、英元公は、この地に堂宇を建て、家来の横山源作(僧侶名は玄浦)という方を出家させ、この堂宇を守らせることにしました。この堂宇が、やがて『祥雲寺』の草創となりました。
大春和尚が昌雲寺を移す 英元公が建立した小堂宇が、二代目住職・風山大春和尚のときに大変容し、本堂、庫裡を有する寺院に発展しました。そして『瑞龍山祥雲寺』と称するようになりました。
このときに祥雲寺の開創の年を小堂宇が建てられた慶長三年(一五九八)と定め、小堂宇を建てた祖父・英元公を開基(お寺を開創した方)に迎え、開山さまには大春和尚の師・牛室香◆和尚を勧請しました。
ご本尊はお釈迦さま
祥雲寺は、開創以来ご本尊に釈迦牟尼如来(一般にはお釈迦さまとよばれています。)をお祀りしています。釈迦牟尼如来は、慈悲と智慧の二徳を備え、悟りを開いて広く衆生を済度される、仏教の祖「釈尊」です。
現在のご本尊は、祥雲寺草創当時から本堂に安置されている古仏です。四百十余年もの永い歳月ここに座し、檀信徒からの信奉を得て衆生済度を重ねられてこられました。祥雲寺第一の宝です。
天明八年に全山を焼失
十八世紀になりますと、本堂の建て替えが行われました。それから、さらに鐘楼、山門などが建立されて、ほぼ現在の伽藍形態が整えられました。
しかし伽藍が整えられたからといっても、祥雲寺には多くの苦難の道のりがありました。その一つが、天明八年(一七八八)の全伽藍の焼失という災難でした。
わずかに山門(六ツ足門)だけを残しての全山焼失という大災害は、第十四代・大栄千樹和尚が入山(寺の住職になる)する前の日に起きているのです。ですから、千樹和尚は伽藍が消滅してしまった
「さら地同然の祥雲寺」に入山したわけで、まさに「真実はドラマよりも奇なり」でした。
しかし、焼失の三年後までには伽藍のほとんどが復旧し、再びお寺発展の気運がみなぎってきました。その伽藍を嘉永年間(一八四八〜一八五三)に大改修。明治時代を迎えますと本堂の藁屋根を瓦葺きに葺き替える工事を実施しました。昭和期の後半に至りますと、さらに庫裡が檀信徒の浄財によって庫裡会館に生まれ変わりました。この間に、祥雲寺塾を開いたり、保育園経営という社会事業にも取り組むという、多くの活動を実践してきました。
四百十余年に及ぶ祥雲寺り歴史・・・・ 長い歳月の間に浮き沈みがありますのは世の常で、祥雲寺とて同様でした。その波乱の祥雲寺の歴史と法灯を守り通
してこられた住職は、現住職で二十一代目となります。
(以上、概観しました事柄は、後述の『祥雲寺記録』の欄で詳述します。)
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