宗 旨 は 曹 洞 宗
お釈迦さまの教えを 正しく伝え実践する 祥雲寺の宗旨は『曹洞宗』です。
「祥雲寺の記録」に先立って、まず宗旨・曹洞宗について理解を深めて見ることにします。
曹洞宗は、高祖・道元禅師、太祖・瑩山禅師を両祖と仰ぎ、私たちのかけがえのない人生の師として帰依しています。そして両祖の教えに叶った信仰生活を確立し、『人間の尊厳を保持しながら、無常の世を無常のまま生きる坐禅の生活こそ、その極意であるというお釈迦様の教えを正しく伝え、その実践につとめている宗門』です。
さらには、生命の尊さの自覚、一人ひとりの人権の尊重、世界平和の実現、自然環境との調和を目指し、二十一世紀の真の光明となるよう精進している宗派、それが曹洞宗なのです。
仏心に目覚める
教義のもとに活動 曹洞宗は、全国に一万五千か寺を有する大宗門で、次のような教義(大要)のもとに布教活動や法要を重ねています。
私達は、だれでも仏心を具えています。しかし、それに気づかずに我が儘な生活を繰り返していることが、悩みや苦しみのもとになっています。反省し、懴悔して、お釈迦様の御教え、両祖様のお諭しに導かれ、自分の正しい姿に目覚めましょう。
仏様に帰依して心が落ち着くと、自ずから生活が整えられて明るくなり、仏心に目覚めて社会のお役に立つことを喜び、どんな苦難にも耐えていこうとする信念が強まります。そこに生き甲斐と幸福とを見いだしていくことが、曹洞宗の教義なのです。
この教義のもとに、着実な歩みを重ねている大宗門が曹洞宗なのです。
よりどころとする経典は修証義 曹洞宗は「修証義(しゅしょうぎ)」をよりどころとする経典にしています。修証義は、道元禅師の著わされた「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」から抜粋して、明治時代にまとめられた経典です。また、般
若心経、法華経などもよく読誦されます。祥雲寺でも同様です。 (般若心経は諸記録の項を参照ください。法華経の内容は省略します。)
法華経は、各宗派でも用いている「諸経典の王」といわれる経典です。道元禅師も比叡山で修行中に法華経を学び、正法眼蔵の中にも多く引用して宗旨を述べておられます。
般若心経は、唐の時代(七世紀初め〜十世紀初め)からすでに用いられ、「すべては空なり」と悟るまでの要旨が、二百六十二文字の中で示されているという、大変に短くて身近な経典です。
正法眼蔵の一説 仏道をならふといふは 自己をならふなり 自己をならふといふは 自己をわするるなり
自己をわするるといふは 自己の身心(しんじん) および佗己(たこ)の身心をして 脱落せしむるなり
解説》仏道を学ぶということは、実は自分自身を学ぶということである。自分を学ぶということは、身についた知識や経験、思慮分別
を捨て去ることである。そして自我を捨て、生まれたままの清浄な自己をとり戻すことである。清浄な自己は、自然と一体となり、なんのわずらいもない。真心だけで生きれば、身も心も清らかに澄み、自分ばかりか接する他人の身心も清浄にできるものである。
坐 禅 を 大 切 に す る 坐禅の目的は、
心を落ち着けて人間らしい生き方を静かに考えるものですが、道元禅師は、さらに一歩すすめて、考えることも効果
も期待することなく、ただひたすらに坐る只管打坐(しかんたざ)を教えています。それだけに「坐禅こそ仏の姿」として、曹洞宗では、とくに坐禅を尊びます。
この坐禅とは・・・・・ 曹洞宗大本山総持寺西堂発心寺専門僧堂堂長・原田雪渓師の坐禅についてのことば(要旨)を引用してみます。
◆坐禅は安楽の法門◆
私たちは、樹海のような葛藤の迷路に入り込んだり、複雑な人間関係に神経を擦り減らしたり、心から安心したいと願ったとき、静かに「やすらぎの道」を求めるのではないでしょうか。そして、不安に気づいたとき、それが坐の始まりです。多くの人は「禅はむずかしいもの」と思っていますが、禅は漢字で「単を示す」と書きますように、きわめて明瞭で簡潔な教えです。
禅は、また仏法そのものともいわれています。仏法の「法」という字は「水が流れ去る」と書きますが、高いところから低いところへ水が流れるように、人の「はからい」の入る余地のない、すべての自然の理(ことわり)や真実に気づくこと、これが禅のすべてで、この「やすらぎの道」を自分のものとするためのいちばんの近道が、坐禅なのです。永平寺ご開山・道元禅師さまは、坐禅を「安楽の法門(やすらぎの道)」と、おっしゃっています。
私たちの宗派は、すでに自分も「安楽の法門」の中にある、ということに目覚めることを唯一の教えとしています。
◆只管打坐(しかんたざ。ただ坐る)◆
曹洞宗の坐禅では、ただひたすらに坐る只管打坐を教えています。只管打坐とは、自分が坐っていることさえ忘れて、坐になりきって坐るということです。
「ただ坐ること」によって「ただ」を忘れ、「忘れた」ことも忘れ、「坐」をも忘れることが肝要です。道元禅師のいわれる
「心身脱落、脱落心身」がこれです。
◆因果に安住する(物と我と一体になる)◆
坐禅のときは、善悪の基準を立てないで、不安や不満の状態のままにまかせるということです。私たちは一つの心の中に同時に二つの考えを起こすことはできません。ですから順境にも逆境にも安住して、心を動かさないことが大切になります。
原因と結果は、常に一つの輪廻となって繰り返しています。輪廻の実態は在りません。しかし、人の介在(我見)があるために因・縁・果
が別々にあると思ってしまうのです。私たちには、もともと迷いというものはなかったのです。この道理が体得できたとき、
取捨 (しゅしゃ)の念がやんで求心がなくなります。これが「坐禅は安楽の法門」であり「真のやすらぎが得られた」ということなのです。
両 祖 大 師 を 偲 ぶ
曹洞宗は、鎌倉時代中期の禅僧・永平道元禅師によって、安貞元年(一二二七)に、中国から日本にもたらされました。そして、さらに道元禅師より四代目の瑩山禅師のときに教勢を大きく広げ、今日の隆盛を見ています。このことから、曹洞宗では、道元・瑩山両禅師を
『両祖大師』とお呼びします。
この曹洞宗は、臨済宗と並ぶ禅宗の二大宗派の一つで、『南無釈迦牟尼仏』を御本尊唱名としています。これは、釈迦牟尼仏に帰依
(きえ) するということをあらわします。
つぎに曹洞宗開宗の道元禅師、教勢拡大の瑩山禅師について、その来歴を述べてみます。
13歳で出家された道元禅師 道元禅師(高祖・承陽大師=父にたとえる=)は、正治二年(一二〇〇)、
京都に生まれました。父は久我道親、母は藤原基房の娘・伊子でした。
十三歳のときに出家し、幼くして比叡山で天台学を学び、貞応二年(一二二三)には、明全上人に従って入宋し、五年間滞在して曹洞禅を学びました。
安貞元年(一二二七)に帰国しますと、間もなくして「普勧坐禅儀」や「弁道話」で、坐禅による宗教哲学を明らかにしました。その後、宇治の極楽寺に隠棲し、そこで興聖寺僧団を結成し、さらに越前(福井県)に出て永平寺僧団を結成しました。晩年には京都に入りましたが、建長五年(一二五三)その地で没しました。 道元禅師は、生涯にわたって坐禅専修の教えを説き、また厳しい修行を要求して、武士層の確かな信奉を得ました。
道元禅師の哲学や思想は、難解であるという識者もありますが、日本思想史・宗教史の頂点を形づくった禅師であることには異論がありません。曹洞宗の誇れる宗祖なのです。
峰の色 渓の響きも 皆ながら わが釈迦牟尼の声と姿と 道元禅師
瑩山禅師も13歳で受戒
瑩山禅師(太祖・常済大師=母にたとえる=)は、文永五年(一二六八)に越前(福井県)で生まれました。仏慈禅師ともお呼びします。
道元禅師と同様に、やはり十三歳で永平寺の孤雲懐奘禅師に従って剃髪し、受戒しました。孤雲禅師の没後、徹通
義介禅師について加賀(石川県)の大乗寺に移りましたが、やがて大乗寺、能登の永光寺と総持寺、加賀の浄住寺を禅院に改めて開山初祖となりました。
元亨年間(一三二一〜一三二三)に、後醍醐天皇より千種の疑問が出されましたが、それへの禅師の回答は卓越しており、世間、各宗門から高く評価されました。以後、総持寺が紫衣の出世道場とされたのも、禅師のその卓越した回答の結果
によるものでした。
禅師は正中二年(一三二五)に遷化され、大乗寺、永光寺、浄住寺、総持寺の四か寺に分骨埋葬されました。
大本山は永平寺・総持寺
道元・瑩山両祖大師に帰依する曹洞宗は、福井県の永平寺と、神奈川県の総持寺を大本山としています。祥雲寺檀信徒も度々両大本山を参詣し、その霊場の雰囲気を身をもって感得されている方が、大勢おられます
。
甍を競う大本山永平寺
大本山永平寺は、福井県吉田郡永平寺町志比に在ります。
寛元元年(一二四三)に高祖・道元禅師は、この地方の領主・波多野義重公の縁をたよりに、京都深草の興聖寺からこの地に移られました。御年四十四歳のときでした。
その翌年、禅師は傘松峰大仏寺を創建されました。この大仏寺が永平寺の前身となりました。創建二年後の寛元四年(一二四六)に、吉祥山永平寺と改められたのです。
永平寺は、開創以来、十度に及ぶ火災に逢っています。しかし、その都度たちまちにして復興され、今日では、老杉に囲まれた幽寂な境内に七堂伽藍が建ち並び、その上に七十余棟の甍が競うという壮大さを誇っています。
さらには、昭和四十六年(一九七一)に豪壮な檀信徒研修道場・吉祥閣の完成を見ており、僧俗の一大禅センターとなっています。
一大禅苑を形成する 大 本 山 総 持 寺
大本山総持寺は、神奈川県横浜市鶴見区鶴見に在ります。
石川県櫛比庄にあった諸嶽寺に、請われて晋山した瑩山禅師は、晋山されると間もなくして、その諸嶽寺を諸嶽山総持寺と改称されました。元亨元年(一三二一)のことでした。これが、大本山総持寺のはじまりです。この総持寺を拠点にして、曹洞宗は全国に広まったのです。しかし、明治三十一年(一八九八)に伽藍を焼失して、現在の横浜市へ移転されました。
現在は、諸伽藍、諸施設ともに完備し、宗門檀信徒・外国人参禅者の信仰の場として、一大禅苑を形成しています。また、瑩山禅師の女人済度の御心に則して、幼児から成人まで子女の教育に力を注ぎ、さらに社会福祉事業も活発に展開しています。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
現代ほど、人々が宗教に関心を向けている時代はないといわれます。ところが、現代人の間には、
「既成教団は、社会の期待に十分応えていないのではないか。」 という不満の声が、かなり多くあるようです。その点からは、日本最大の檀信徒数を有する曹洞宗の果
たすべき役割は大きいし、責任も重いと受け止めざるを得ません。
私たち祥雲寺檀信徒は、優れた両大本山に恵まれています。そして、祥雲寺という立派な菩提寺を有しています。私たち檀信徒が、正しい仏法にさらに目を大きく見開いて、それを体得し、その小さな力を結集して、社会のニーズに応えていくということが、今後とも必要なのかも知れません。
御本尊にはこだわらない ところで、曹洞宗寺院は、釈迦牟尼仏をご本尊としているところが大多数です。しかし、曹洞宗としては、とくに御本尊にはこだわってはいません。大本山の永平寺では釈迦牟尼仏・弥勒仏・阿弥陀仏をお祀りしていますし、総持寺でも釈迦牟尼仏・迦葉尊者(かしょうそんじゃ)・阿難尊者をお祀りしているほどです。
この現象が生じたのは、曹洞宗が全国に広まりましたときに、多くの既成仏教の寺院が曹洞宗に改宗されました。そのときに、曹洞宗では、あえて新しい御本尊を迎えるということを避け、これまでの諸仏をそのまま御本尊とすることを承認した、という経緯があることに由来しています。
また曹洞宗では、先述しました両祖大師を釈迦牟尼仏とともに、たいへん尊崇しますので、「一仏両祖」とまで称しているほどです。
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