堀 口 村 ・ 昌 雲 寺

 二世・大春和尚が正保二年(一六四五)に、祖父・英元公の旧領地・堀口村に在った昌雲寺を境野村に移し、「昌」の一字を「祥」に変えて『祥雲寺』としたのが現在の祥雲寺の始まりとされています。このことからしますと、祥雲寺の元寺は堀口村(現在の伊勢崎市堀口町)の昌雲寺ということになります。この元寺・昌雲寺について触れてみることにします。
 伊勢崎市堀口町は、伊勢崎市街地より南側の国道354号線沿いに拓けた町で、利根の流れが間近に迫った位 置にあります。昌雲寺は、その国道の北側に存在します。(所在地地図を参照してください。)  昌雲寺の創建時期は明らかではありませんが、祥雲寺とほぼ同じ年代か、それ以前(弘治元年=一五五五〜慶長六年=一六〇一)の創建されたものと推定されています。
 ところで、  瑞龍山祥雲寺は、高橋丹波守橘英元の旧領、 堀口村の正雲寺を移築し、「 正 」 の一字を「 祥 」に変えて祥雲寺とした。と、桐生市史にあります。しかし、旧堀口村(伊勢崎市堀口町)に正雲寺は存在していませんでした。 存在していたのは「昌雲寺」のみでした。  昌雲寺住職に寺の由来を問い合わせてみましたら
、  「当寺は昔から昌雲寺であり、正雲寺の名称を使用したことはない。当寺は明治の初めに火災に遭い伽藍が焼失。同時に古文書等も、そのときに焼失してしまったため、高橋丹波守という御仁が、当寺とどのような関係にあったかは、まったく分からない。むかし、近くに正雲寺という寺院が在ったということも耳にしていない。」という回答でした。
 市史が記録した「正雲寺」は「 正 」が「 昌 」の誤りという単純ミスであって、「昌雲寺」が大春和尚の境野村移築の寺であったものと思われます。  次に昌雲寺の歴史を伊勢崎市史から転記してみることにします。
 (昌雲寺は)弘治元年(一五五五)から慶長六年(一六〇一)までの間に、廃寺となっていた蓮光寺の資材等を使って、現在地へ創建したものと思われる。耕地整理前の字図を見ると、東から蓮光寺、字寺東、 昌雲寺 、字城跡と並んで近くにあった。寺伝にいう天文の末年(十六世紀の中頃)に法燈光園が開山したという説は肯定できる
。  光園が武蔵国人見(現在の埼玉県深谷市人見)の昌福寺六世であり、同寺は上杉房憲の開基になる寺(近世、昌雲寺は昌福寺の末寺)であるところからして、その一族もしくは家臣によって建てられたものと思われる。
  祥雲寺の山号・寺号の由来
 正保二年(一六四五)に、大春和尚によって堀口村の昌雲寺が当地へ移され伽藍が整えられたときに、現在の「瑞龍山祥雲寺」という山号・寺号が定められました。
 元寺・昌雲寺の「昌」の一字を「祥」に変えての寺号とつたえられていますが、小堂宇を建立し開基さまに迎えられた祖父・英元公の諡号(しごう。戒名)である「瑞龍祥雲居士」から四文字をとっての山号・寺号であることは、容易に推察することができましょう。

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