記録にとどめたい多くの事柄

 祥雲寺には、これまでに記述してきました内容のほかにも、記録にとどめておきたい事柄が多々あります。寺地寄進のこと、寺子屋・祥雲寺塾のこと、境野保育園経営のこと、境野小学校発祥のこと、参道の石橋のこと、境内の古松のこと等々です。
 それらに「般若心経」や「梅花流詠讃歌」を加えて、この項で記述してみることにします。
 移築四十年後頃に寺域拡張  祥雲寺が現在地へ移築されてから四十年ほど後に、寺域の拡張のあったことが高橋家文書に見られます。高橋小兵衛(大春和尚の一族)という方が、屋敷を祥雲寺に寄進しているのです。
 拡張の年代は、文書に示されてはいませんが、寄進者・高橋小兵衛さんは、正徳五年(一七一五)に逝去されていますので、壮健であった十七世紀末から、十八世紀早々にかけての寄進であることには間違いありません。 高橋家文書の記述は、次のとおりです。
 大久保(浜の京と松宮との境界辺りといわれています。)未申ノ方ニ沼有リ之ヲ用水ニシテ治郎右エ門(開基・高橋丹波守英元公の子息。大春和尚の兄)代ニ家建田畑開キ住居シ(中略)小兵衛(新兵衛の子で、治郎右エ門の孫、)妻マキ 此者代ニ本屋敷寺ニ寄進シテ四良兵衛屋敷分チ住ス新井弥三良墓ノ上ヨリ本屋敷之(以下略)
    教育面に三つの足跡を印す
 祥雲寺では、幕末から昭和期にかけて、子女の教育面にも大変力を入れました。寺子屋・祥雲寺塾の開塾、私立境野保育園の開設がそれです。さらには、明治五年の学制発布により境野小学校を設置する際には、仮校舎として本堂を快く提供しているのです。
 教育活動に祥雲寺が印した大きな三つの足跡。それを次に記録してみます。     寺子屋・祥雲寺塾を開く  祥雲寺には、幕末から明治の初めころまで、「祥雲寺塾」と呼ばれる寺子屋がありました。祥雲寺塾とは、第十七世・法山達幢和尚が嘉永年間(一八四八〜一八五四)に開塾したもので、明治七年 (一八七四)に閉塾するまでの二十余年間、近隣の子弟に学問を授けてきた塾のことでした 。
 祥雲寺塾へは常時十五人の寺子が通学し、読み・書きを中心にして一日七時間の授業を受けました。休日は、年始・節句・盆・年末のみで、もちろん現在の学校教育のような土・日の休みや春休み、夏休み、祝日休日などといったものはありませんでした。祥雲寺塾では、決められた休日以外は連日通 塾するという、現代っ子には想像すらできない密度の濃い授業が実施されました。
 祥雲寺塾には、今でいう月謝は必要ありませんでした。寺子は、お節句や盆・暮れに時季の産物を持参する程度でしたので、塾の経費の大方は、師匠である達幢和尚の自己負担だったといいます。
 達幢和尚の指導方針は「個別指導の重視」でした。まさに時代の先取りでした。そのうえ、必要に応じて夜間授業も行いました。新しく入塾した者や理解の遅れている者に対しては、兄弟子をつけて習熟の徹底を図るという熱の入れ方でした。加えて、達幢和尚の塾における指導ぶりは、ことのほか懇切丁寧で、寺子が理解できるまで、じっくりとねばり強く指導を続けたと伝えられています。その指導の様子には、実の親以上の愛情が感じられとれたといわれます。
 明治五年(一八七二)年、学制の発布がなされますと、達幢和尚は直ちに閉塾の意志を固め、境野小学校の開校を前にして、人々に惜しまれながらも寺子屋・祥雲寺塾を閉じてしまわれました。
 達幢和尚は、閉塾二十年後の明治二十五年(一八九二)五月二十三日に大往生されました。七十五歳の示寂でした。和尚逝去後の大正元年(一九一二)にを迎えますと、師匠・達幢和尚の恩情と厚恩に報いようと、かつての寺子たちが寄り集まって話し合い、 浄財を寄進して 「報恩の碑」を祥雲寺境内に建立したということは、あまりにも有名なことです。
 報恩の碑の存在----- この碑が、いかに達幢和尚の導きが素晴らしかったかを今もなお語り続けてくれているのです。(53ページおよび84〜85ページを参照してください。)
  祥雲寺事業の金字塔・保育園経営  第二次世界大戦の敗戦の痛手から、ようやく立ち直りの傾向が見え始めた昭和二十五、六年(一九五〇〜五一)。このころになりますと、人々の心は幼児教育の必要性に目をむけるようになってきました。こんな社会情勢のなかで、祥雲寺ではいち早く私立保育園の開園に踏み切りました。昭和二十六年(一九五一)開園の私立境野保育園がそれで、第二十世・大興法隆和尚代のことでした。
 開園当時の境野保育園には、まだ正規の園舎はなく本堂を仮園舎にして教育をしていました。園児の送迎もリヤカーを利用して行うという状況でした。(56ページを参照してください。)ですから、施設の不備を「愛情の込められた保育」という保育園経営方針の実現に努めることが、保育の目玉 だったのです。
 その苦労が徐々に結実して、数年後には境内(現在の駐車場)に園舎の建築が成りました。その新園舎や新園庭に、園児たちの嬉々とした生活ぶりが見られるようになり、園庭近くを通 行する人たちにも、生き生きとした園児たちの生活ぶりを目のあたりにすることができるようになりました。
 開園二十周年という区切りの年を迎えるころには、市内各寺院の多くが保育園を経営するようになっていましたが、境野保育園は市内有数の私立保育園に発展し、園児数も百六十人に達するほどになっていました。
 しかし、この順調な園経営に、まもなく陰りが見え始めてしまいました。昭和期半ばから見え始めていた少子化の傾向が、昭和六十年代に入るといよいよ顕著になり、その波がもろに園経営に覆い被さるようになってきたのです。そして、思うように園児が集まらなくなり、さまざまな面 に支障をきたすようになってしまったのです。
 この現象は、園経営の改善努力だけではいかんともしがたい、全国的な傾向でした。そして、大勢の人々の園存続の願望も空しく、ついに平成五年(一九九三)三月三十一日をもって、閉園しざるを得なくなりました。
 少子化という大きな社会的現象による大波をもろに被って、残念ながら四十余年間にわたった私立境野保育園経営という立派な幼児教育事業に、幕を下ろすことになりましたが、この長期間、幼児教育に及ぼした大きな功績は、自他共にが認めるところで、数多い祥雲寺事業の中での『燦然と光り輝く金字塔』といっても過言ではないでしょう。
 現在は、かつての園庭の片隅(山門の脇)に記念碑(86ページを参照してください。)が建立されて、在りし日の様子をとどめています。
  境野小学校発祥の地に  市立境野小学校沿革史に、
 紀元二千五百三十四年明治七年(一八七四)一月十七日開校(中略)校舎本村番外二番地字濱之京祥雲寺ヲ假用シ以テ校トス。時ニ生徒ノ校ニ入リ学ニ就ク者八十有七名内男七十二名、女拾五名村内人民ヨリ寄附金貮千壱百九拾七円ヲ募リ、年一割ノ利子ヲ出サシメテ以テ維持ノ經費ニ充ツ。本校此時第一大學区第四十二番中學区第二十六番小學ト改定セラル。(以下略) とあります。
 現在、境野町六丁目の地に堂々たる校舎をそびえさせる市立境野小学校は、明治五年(一八七二)の学制発布によって誕生した山田郡境野村境野小学校(現在の市立境野小学校)として、ここ祥雲寺を仮校舎にして発足したのです。明治十二年(一八七九)一月十四日に中通 りの大屋由太郎氏(当時)宅へ境野小学校が移転したため、五年間に満たない短い期間ではありましたが、祥雲寺は市立境野小学校発祥の地として、忘れることのできない記念の場所になっています。
  参道の石橋遺構も現存する
 山門前の桐生商管側の道路が、昔からの祥雲寺参道です。この参道は、かつては、現在よりかなりの道幅を有していました。そのことを裏付けるのが、山門前の堀に架けられていた石橋遺構が証明しています。その昔の石橋の遺構である石材が、今もなお境内の円相多重塔の脇と、一休像の前に保存されています。
 円相多重塔脇の石材遺構は五枚あります。これが石橋遺構のすべてとしても、石在の長さが1m90センチあって、当時の堀幅を偲ばせています。また、それぞれの石材幅は48・5センチ、60・5センチ、63・5センチ、61・5センチ、54・5センチ、計2m88・5センチあることから、参道の道幅も推測することができます。  なお一休像前の石材(橋げた)には、次の銘が残されています。  石橋改築寄附者 大川又市 仝嘉四太郎 仝岩治郎 仝彌八 仝要吉 仝和三郎 仝清吉 仝寅一郎  仝萬吉 仝嘉十郎 仝鶴吉 仝由三郎 仝嘉吉 仝錠次郎 仝留吉 仝徳松 仝□市 仝重吉   山田郡境野村字濱之京 大川家一同 瑞龍山祥雲寺 現住十八世代 正和玄霊叟  この銘からしますと、石橋が参道の堀に架けられたのは、大正時代から昭和初期(二十世紀初め)の間ということになります。
  シンボル・アカマツの巨樹
 寺域の南東に、市道に覆いかぶさるようにそそり立つ巨樹が見られます。それが、今では祥雲寺のシンボル的存在になっているアカマツの巨樹です。  この小史の原稿作成に先立って、平成十二年八月、お二人の専門家にアカマツの樹齢推定をお願いしましたところ、お一人は、「樹齢は、およそ百二、三十年。おそらく百五十年には届かないだろう。植えられた場所がアカマツの生育に好条件の所だったので大樹に育ったが、あのアカマツは見た目より若いと見る。」とのことでした。
 他のお一人は、「アカマツは目通り(直径)が78pもあり、亀甲型の樹皮が地上5mを超えるところにまで達していることからは、生育条件がよかったとしても、樹齢百七、八十年にはなろう。ただ、松の葉を見ると今も長くて元気がよいことから、二百年には届かない。松の木は、昔から祝い事の記念に植えられることが多かったことからすると、そのころお寺になにか記録に残るような出来事があったのではないか。」 といい、相生町にある県指定天然記念物・相生の松(樹齢およそ三百年)を参考に検討してみても、百七、八十年という推定は誤りではないと確信する。」 と述べられていました。
 専門家お二人の推定樹齢には、百二、三十年から百七、八十年と幅がありますが、仮に最も若い樹齢百二、三十年とみますと、このアカマツは、市立境野小学校が祥雲寺で呱呱(ここ)の声を上げたときの様子を目のあたりにしているわけですし、百七、八十年とみますと、法山達幢和尚が、祥雲寺伽藍の大修理を完了させ、寺子屋・祥雲寺塾を開塾したころに、樹齢二、三十年ほどの赤松を植樹されたのではないか、ということが推測できましょう。
 いずれがアカマツの植樹時期に相当するのかは、今後の調査を待つことにしましても、祥雲寺のアカマツは市内屈指の巨樹であることに変わりはありません。
今後とも祥雲寺のシンボルとして、大切に見守っていかなければならない巨樹であることに異論はないでしょう。
 このアカマツのほかにも、境内には数本の松が植えられています。なかでも、、 「庫裡会館前(法山達幢和尚之碑の隣)のクロマツや、本堂前(道元禅師像の後ろ)のクロマツも、樹齢推定百二、三十年には達しています。あるいは、赤松の巨樹よりも樹齢は上かもしれない。」「祥雲寺のクロマツは、手入れが行き届いているので、成長にかなりの影響を受けている。そのことを考慮に入れてみても、樹齢は百二、三十年くらいか?」 と、専門家は推定しています。」  樹齢の確認は正確にはできませんが、いずれの松も祥雲寺の長い歴史を共にして、歩んできた松たちであるということを、ここで改めて認識したいものです。
  長嶋元校長の村葬挙行
 祥雲寺では、たびたび盛大な葬儀が挙行されています。なかでも著名なのは長嶋織吉・元境野小学校長(山田郡毛里田村=現在の太田市毛里田出身。)の村葬でしょう。
 長嶋元校長は、明治三十五年(一九〇二)から昭和二年(一九二七)までの二十六年間、境野小学校長として敏腕を振るわれた方でした。林間学校の開設、奉安殿の設置、休日返上の学校環境改善、再三の校舎増築、全国児童図画展覧会単独開催等々の本業での功績のほかに、第二代境野村村長・野辺三左氏との名コンビにより、村政改革に取り組んだ功績は偉大なものがありました。
 自治模範村表彰、教育模範村の実現、養老会の開催、青年会や処女会(女子青年団)の結成、境野報徳学会の結成、各種著名人の発掘・顕彰・紹介、史跡・名勝・天然記念物保存・・・・ 村政面 や社会教育面でも、数え上げたらきりがないほどに、八面六臂の活躍をされた名物校長・有名人でした。
 長嶋校長は、昭和二年(一九二七)に後輩に道を譲られると、境野地内に住して晴耕雨読の生活に入られましたが、退職十年後の昭和十二年(一九三七)六月八日に、病のため大勢の人々に見守られながら冥府へ旅立たれました。享年六十七歳でした。境野村では、長嶋元校長の長い間の教育面 ・自治面での大きな功績を高く評価し、村葬として祥雲寺において盛大な葬儀を挙行し、それを称えました。
 村葬後、長嶋元校長の霊は、生地の毛里田村・瑞岩寺に埋葬され、永遠の眠りに就かれました。
   幟旗掲揚塔も寄進される
 ダルマ大師像の近くに幟旗掲揚塔があります。檀信徒の寄進によって建てられた掲揚塔で、次のような問答と寄進者名が刻まれています。
  常在佛法 本師釈迦牟尼佛見明星大悟初祖迦葉尊者拈華微笑伝法 二祖阿難尊者初祖迦葉尊者問世尊金襴袈裟外什麼伝迦葉曰門前之旗竿倒著阿難大悟 三十三祖大鑑慧能禅師悟法后法性寺旅宿二僧有対論一僧旗動云一僧風動云論争 大鑑曰二者心動也  百五十年後仰山慧寂禅師徒弟妙信尼悟道廨寺院住持為時蜀僧十七名旅宿夜大鑑之風幡論明朝尼曰不是 風動不是幡動不是心動言下十七僧大省有  寄進者芳名  岩下啓子 北川長司 関口泰司 井上准一 三田昭三 高橋悦三郎 新井信孝 牧島英一 芝野喜久夫 須藤ノブ 大屋茂一郎 北川友雄 山崎俊幸 河島進一 茂木ミツ 星野和男 田島章次 小松茂夫 新井沢太郎 成田福蔵 田中 肇 高橋謙三郎 林 與一 関根美代子 金子イチ       昭和六十一年(一九八六)十月 今井 好三 謹書 金子誠一郎 刻
   般若心経と梅花流詠讃歌
 参考の記録として、ここで般若心経と梅花流詠讃歌(御詠歌と和讚)をまとめておきます。  般若心経は、御本尊や仏菩薩の供養に最も多く読誦される経文で、最も簡潔な経文です。短いけれども、内容はお釈迦さまの教義の基本をなすものとなっており、「般 若心経を学ぶことは、仏教の基本をしっかり会得することにも通ずる。」と、いわれます。
 この般若心経は、唐の玄奘三蔵(六〇二〜六六四)によって訳された経文と伝えられています。玄奘三蔵は、十八年かかってインドで仏教を学んだ方で知られ、フィクションの「西遊記」に登場してくるお坊さんでもあります。
 梅花流詠讃歌は、「祥雲寺御詠歌の会」の方々が詠唱する機会の多いものに視点を当てて、20の歌詞についてまとめてみました。梅花流の名称は、道元・瑩山両祖大師が、こよなく梅花を愛でられておられたことに由来していますし、「梅花」の語は釈尊から代々継承されてきた正伝の仏法、正法そのものを象徴的に表したものでもあるといいます。

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