地蔵尊仏頭(鎌倉時代)

 昭和30年〈1955〉のことだったと記憶しています。わたしは、この年、市立梅田南小学校の児童を引率して、郷土の学習で菩提寺を訪問しました。
 当時のご住職は坪井不昧師(第三十三代百丈不昧大和尚 昭和35年8月3日示寂)で大変にこやかに私たちを迎えてくださいました。 
  不昧師は児童の訪問を大変に喜ばれ、「お寺のことを勉強するとは感心感心。しっかり覚えていってくださいよ。」と言われ、本当に親身になって、細々と説明をしてくださいました。その案内の一つに、本堂内に安置されていた地蔵菩薩仏頭がありました。  
 不昧師が、「みんなは、群馬県の偉人である新田義貞という武将のことは知っておろうな。この仏様は、その新田義貞公が鎌倉へ攻め入ったときに持ってきたもので、仏頭といわれる仏様だ。鎌倉幕府との戦いに勝つたという証拠の仏様というわけだな。」と説明してくださ ると、児童たちは、 仏頭は、鎌倉地代「新田義貞って、稲村ケ崎で黄金の太刀を海に投じて鎌倉へ攻め入った武将だよね」とささやきながら聞き入っていました。    
 新田義貞公の鎌倉攻めの戦利品で その時からすでにある「地蔵菩薩仏頭」が菩提寺の本堂に安置されている。鎌倉幕府滅亡という歴史上の大きな出来事の証人を菩提寺で拝観できる、というのは、すばらしいことで、不思議な気持ちさえします。  
  鎌倉攻めの戦利品の仏頭の存在:これも開基・由良成繁公が新田氏の子孫であったということに由来しているのでしょう。  
  仏頭は、鎌倉時代〈1192-1333〉の作と推定されています。新田義貞公が生品神社で旗揚げをして攻めのぼり、鎌倉を落としたのは元弘3年(1333)のことでした。その時からすでに百年ちかい歳月が経過している古仏頭ですが、仏頭には、まだまだ広く金箔が残っていて、往時の荘厳さを現代に伝えています。   
 現在は、ご本尊に向かって右手の部屋に安置されていますので、菩提寺訪問の時に、  ぜひご対面を・・ 
  清水義男氏文書より

鎌倉討ち入りの戦利品

地蔵菩薩の仏頭

本堂の一室に安置されている大きな地蔵菩薩仏頭

 

 

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