弁財天の寺・光明寺

 

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   光明寺への道

 桐生七福神の第一とされる弁財天を祀る光明寺は、東上州三十二番札所という名刹です。山号を「大慈山」といい、千手観世音菩薩をご本尊とする曹洞宗のお寺で、宮本町三丁目九−一五の地に在ります。
  御詠歌   ありがたや ちかいもふかき 千手堂  二世あんらくと たれしたのまん  この光明寺への道はJR両毛線・桐生駅(北口)を起点にして、およそ1・5キロという比較的近距離の地にあります。
 まず桐生駅(北口)から上毛電鉄・西桐生駅方面へと北上します。左に西幼稚園、西中学校を、そして右に桐生第一高校を見ながら、桐生駅からそのまま900?ほど歩みますと、左側頭上に『桐生が岡動物園・遊園地、吾妻公園』と示されたブルーの標識があり、わずかに進むと西小学校正門前から伸びてきた市道と交差する、信号機の設置された十字路になります。その十字路を左折します。
 沿道の近代化遺産建造物を眺めながら、さらに500メートルも進みますと、再び先程と同じ文字の示されたブルーの標識が見えて来ます。その標識の先をもう一度左折し、吾妻公園方面 へと向かいますと、まもなく光明寺の山門・仁王(金剛力士)像、そして庚申塔群が、訪れる人々を迎えてくれます。
 光明寺は、桐生市の植物園とも言える「吾妻公園」と隣り合った風光明媚な場所に位 置しているのです。


   

目指す弁財天像は宝珠型仏塔
光明寺の清楚な山門をくぐりますと、手入れのいきとどいた美しい境内と立派な本堂や観音堂・水子地蔵像(昭和四十四年五月二十五日建立。写 経一万巻を納める)などが目に写り、歩み続けて息の弾む汗ばんだ姿のわたしたちの心を安堵させてくれます。 さて、お参りする弁財天像は、この本堂と対峙する位置の枯れ山水(池)のほとりに安置されています。宝珠型をした仏塔(台石上の高さ86?)が目指す弁財天像です。弁財天像の前には、  弁財天  開運 福徳 智恵 財宝      名称 光明寺宝珠弁財天  時代 室町時代  信仰 弁財天信仰は「巳待」といって、とくに正月最初の巳の日を「初巳」といい、六十日に一回巡ってくる「己巳」が縁日で、信者はこれらの日に詣でます。といった説明板が立っています。
   隣りにも琵琶を手にした弁財天石像(高さ1メートル20センチ)が並び立ちますが、 この石像は別像ですので、このことはあらかじめ承知してお参りしたいものです。
 弁財天を宝珠型仏塔であらわすのは珍しい像形ですし、しかも室町時代の建立(市内には何体かの宝珠型仏塔が安置されていますが、すべて江戸時代の建立です。)ということですので、像形だけではなく年代的にも貴重な石神と言えます。なお石像の方は『桐生七福神』誕生後の建立という新しい弁財天像です。

   弁財天は女神
 ところで、 弁財天という神様は、どういう方なのでしょうか。梵名を薩羅沙縛底(サラスバテー)といい、インドのサラスバティー河を神格化したものと言われています。もちろん七福神の中のおひとりですが、この七福神信仰が盛んになる前は、土地豊饒の農業神として尊信されていました。
 それが、やがて音楽・智恵・財物の神様として、吉祥天とともに広く人々の信仰を得るようになられた女神で、美音天・妙音楽天ともよばれます。
  仏教に取り入れられたころは、八臂(八本の手)に各種の武具を持った像もありましたが、鎌倉時代(十二〜十四世紀)に入って、二臂に琵琶をもつ姿が一般 化し、福徳の神として民衆の信仰を集めるようになりました。現在も、この福徳・音曲の神様としての信仰がなされているのです。

    スタンプは庫裡で
 弁財天に詣でた記念のスタンプ(百円)は、本堂の右手(向かって左側)の庫裡で押していただけます。集印のための色紙(三百円)も、一緒に購入することができます。色紙は他のお寺でも求めることができますが、巡拝の関係からは光明寺で購入するのがよいようです。  このほかには、「開運福徳・知恵財宝」の弁財天御札も一緒に求める事ができますので、ご希望のむきはお寺さんにお伝えするとよいでしょう。

    石仏・石神も多数
弁財天のお参りがすみ、スタンプ等の押印がいただけましたなら、光明寺境内をぜひ、じっくりと参観したいものです。光明寺は市内では有数な石仏・石神の宝庫なのです。ここだけでも一つの区に勝る石仏・石神が安置されているのです。  参拝の前にくぐった山門の脇には、二〇〇余体の庚申塔(千庚申の明示がされています。)、境内にも庚申塔・地蔵菩薩・六十六部供養塔・二十三夜塔・子安観音・如意輪観音・光明寺鎮守の竜王護法大善神・白山妙理大権現・十三重塔などが見られます。
 そして本堂裏手の高台に上りますと、御嶽山籠堂・一心霊神大殿があり、その周辺に市内では貴重な愛染明王をはじめとして、大日如来・文殊菩薩・勢至菩薩・千手観音・聖観音・十一面 観音・不動明王・三宝荒神・摩利支天・山名八幡・大宝八幡・白山神・岩戸大権現・根本山神などなど、三〇余種ほぼ一〇〇体の石仏・石神たちに対面 することができます。  石仏・石神に興味関心をお持ちの方でしたら、きっと光明寺参拝だけで一日が暮れてしまうのではないでしょうか。
 ところで、御嶽山籠堂には『奉納 雪洞壹対 横綱 柏戸剛 昭和四十一年二月吉日』と書かれた額が掲げられています。雪洞とは「ぼんぼり」のことと思われますが、これをどういう縁で横綱・柏戸剛がここに奉納したのでしょうか。
 住職にお聞きした限りでは『不明』とのことでした。調べてみたい--- そんな心が頭をもたげてきそうです。

   観音堂へも参拝を
    本堂に隣接する「観音堂」もぜひ参拝をしたいものです。『光明寺への道』の項で触れた東上州三十二番札所の霊所が、この観音堂なのです。
 ご本尊は千手観世音菩薩で、次のようなことが伝えられています。  古記の伝えるところによると、聖武天皇天平宝字十一年(七三九)、行基菩薩、聖武天皇の勅願により観音像一体を刻みて、この地に一宇の堂を建立す。爾来千二百有余年、開運・厄除・安産・子育・諸願成就の霊験あらたかにして、多くの人々の皈依厚く今日に至る。
 観音堂に詣でますと、たくさんの底の抜けた「ひしゃく」を目にすることができます。これは、ひしゃくの底を抜いて奉納し、「底が抜けるように、お産が軽くすみますように。」と、安産を祈願する産体様信仰が息づいていることを示しています。同時に大勢の安産祈願者が、今なお、ここに詣でて、千手観世音菩薩の御慈悲・霊験とにおすがりしていることを物語っていると言えましょう。

   光明寺の歴史を訪ねる
 光明寺の特色は、大量の石仏・石神たちの存在だけではありません。光明寺そのものにも営々とした立派な法燈守護の歴史が息づいているのです。その歴史を刻んだ石碑(由来碑)が、駐車場手前の門柱の近くに建っています。
 光明寺の歴史・由来にふれるために、その全文を記録しますので、ご一読の上、光明寺への理解を一層深めてみてください。

       光 明 寺 の 歩 み
  古記の傳ふる所によれば、當山は遠く千二百有余年の昔 人皇四十五代聖武天皇の天平宝宇十一 年九月十六日、行基菩薩、観世音の夢告を受け、この地に集まり、山上の霊光池水に映り月光の如 くなるを歓び、信仰の中心として水月庵を開創す。降って寛永元年(一六二四)鳳仙寺七世儀拈牛 把禅師開山となり、大慈山光明寺と改め曹洞修業の道場となす。爾来、法灯盛衰幾度か移るも、歴 代住職の心血と、檀徒各位 の協力、加うるに市勢の発展とにより、今日の興隆を見るに至れり。ここに大本山総持寺貫主岩本勝俊禅師を拝請し、本堂庫裡等の落慶式を挙ぐるに當たり、感激描く能 はず、ここに石に刻して後世に残すものなり。
   昭和四十四年五月二十五日 光明寺三十世 良榮謹誌
   早川勇二刻
 聖武天皇の御代に、行基菩薩がこの地に来たって水月庵を開創したのが、光明寺の始まりと碑文や寺伝にありますが、今のところ「これを裏付けする史料はないので歴史的事実とするのは困難がある。然し此の寺の地形的景観、即ち背後の山容西南面 への拡がり等よりみれば、正に中世紀の密教系寺院の絶好の選定地のように考えられる処である。(桐生市史)」と文献には記述されています。
 現在でも裏山に「ぼんでん」が掲げられています。「ぼんでん」は、某信仰団体が掲げているものですが、かつては光明寺で管理していたものと推測されており、密教的習慣が残されているようにも考えられています。

    開基と歴代住職
 開基 学叟雲碩大和尚  開基(お寺を開いた人)は一般には俗人なのですが、光明寺では『雲碩和尚』となっています。この「開基が僧籍にあった方」ということは、光明寺の特色の一つに挙げられます。
 その開基・雲碩大和尚について、文献では次のように述べています。
  雲碩は通称三郎次といゝ、桐生新町岩下三郎右衛門の祖父である。
  寛永年間現在の宮本町光明寺は、水月庵と称し小庵であったが、背に奇岩崔巍青松全山をおおい風光秀麗であった。雲碩は資材損じ庵を廃して、寺院を建立し、寺号光明寺と改め、自らは薙髪して雲碩と称した。
  鳳仙寺儀枯牛把大和尚を招いて開山とし、自ら開基の住職となって、家を損て寺に移り住んだ。付近一帯の風致に力を須いたので、泉石清麗眺望絶景であった。雲碩はこれを愛して家に還ることを忘れた、ということである。寛文七年(一六六七)八月十四日遷化。法号学叟雲碩和尚、墓は浄運寺にある。(桐生市史)
 開基の墓は、本堂真後ろの歴代住職の墓所の一角に見られます。小塔ではありますが、基壇や蓮台を設けた品格のある無縫塔の墓で「當山開基 学捜文雲碩和尚 寛文七年(一六六七)壬未天 八月一四日 新町 施主 岩下氏」の銘が刻まれています。
   歴代住職 現住・坪井良行師が第三十一世という、永い寺歴を誇る光明寺の法灯を、激動の社会の中にあって守り続けてこられた歴代の住職。その歴代住職の墓所は、開基のところで述べましたように、本堂の真後ろに在ります。
 開基の墓と同型の開山・儀拈牛把大和尚の無縫塔の墓を中心に、歴代住職の墓が、その左右に二段に並びます。


第 一世 儀拈牛把大和尚
第 二世 天外秀雲大和尚
第 三世 融峰寂通大和尚
第  四世 陽岩嶺重大和尚
第 五世 敲契雲門大和尚
第 六世 本水宗源大和尚
第 七世 石橋大梁大和尚
第 八世 大安全午大和尚
第 九世 石操凌雲大和尚    
第一〇世 潭月円澄大和尚
第一一世 雷雄義黙大和尚
第一二世 雲眠寂潭大和尚    
第一三世 大峯高道大和尚    
第一四世 機外俊大大和尚    
第一五世 朴鳳英淳大和尚    
第一六世 朴応流淳大和尚    
第一七世 光順玉瑞大和尚    
第一八世 透宗歩関大和尚    
第一九世 廓岩諦然大和尚    
第二〇世 香道仙桂大和尚    
第二一世 泰道歩随大和尚    
第二二世 大俊良悟大和尚    
第二三世 大安定山大和尚    
第二四世 不     詳    
第二五世 百丈不昧大和尚    
第二六世 諦禅碩宝大和尚    
第二七世 雲庵禅忠大和尚    
第二八世 中興大仙英俊大和尚    
第二九世 悟山俊道大和尚
第三〇世 百仙良榮大和尚    
第三十一世 百山良廣大和尚〈現鳳仙寺住職〉
第三十二世 坪井良行師(現住)

   
おわりに
 光明寺そして弁財天の参拝は、いかがでした? 参拝を終わって、弁財天像はもちろんのこと、本堂・観音堂・境内そして、たくさんの石仏・石神たちに対する新たな感慨が、フツフツと湧き出してきたことと思います。
 それでは、名残惜しいでしょうが、この辺で光明寺に別れを告げて 、
次の札所・平等山妙音寺(寿老人)参拝に出かけることにしましょう。