妙音寺への道
寿老人を祀る妙音寺は、「平等山」という素晴らしい山号をもつ高野山真言宗のお寺で、所在地は西久方町一丁目四−三一です。
弁財天の寺・光明寺から、この妙音寺へ至る道は、次のようになります。
光明寺を後にして、再び桐生が岡公園・児童遊園地への道へ入り右折します。
そして、さらに歩を進め、光明寺へお参りするときに左折した信号機つき十字路まで出ます。光明寺からここまでの間の道のりは、およそ500メートルあります。そこの信号機つき十字路を今度は左折し、歩を進める道路が『通
称・山手通り』です。山手通りは、市内でも有数の社寺・史跡等の多い通りですので、歩道上の歩みは、それらの鑑賞をしながら進めるとよいでしょう。
歩みを進めampmの交差点を左折、しばらくすると左側高台に上野十二社のひとつ(式内社)美和神社、恵比須講で知られる関東一社の西宮神社、桜の名所として県内屈指の桐生が岡公園、桐生では最初に時の鐘を突いたと言われる福王山円満寺(高野山真言宗)、日蓮宗の傑僧と称えられた日薩上人が開いた経王山寂光院(日蓮宗で桐生陣屋跡を有する。たちばな保育園があります。)が、次々と姿を見せてくれます。
また、途中の右手には、市内最初の開校という歴史と由緒とを誇る北小学校も存在します。寂光院前から一直線に伸びて、桐生の往時の町並みを偲ばせる横町の通
りも見逃せません。
平等山妙音寺の広々とした妙音寺駐車場が、たくさんの石仏やアカマツたちと一緒に、わたしたちを迎えてくれます。
駐車場の寂光院寄りからは、石段が山門へと伸びています。そこが寿老人の寺・妙音寺の入り口です。
光明寺から妙音寺までの道程は2キロほどありますが、辺りの景色に見とれながらの散策ですから、みなさんは、「アッ」という間に妙音寺に到着してしまうことと思います。
先にお参りした弁財天の寺・大慈山光明寺は吾妻公園を借景とする、恵まれた環境にありましたが、ここ寿老人の寺・平等山妙音寺も、寺域の後方に「桐生名所」の桐生が岡公園が美しく広がっていて、サクラの見ごろの季節や青葉の季節、紅葉の季節等々、季節ごとに美しい自然を演出してくれます。
また、境内には立派なフジ棚がありますので、その開花どきにここを訪れるのも素晴らしいものです。
寿老人像は本堂内に安置
寿老人は、この景勝地内に建つ妙音寺本堂内に祀られています。
本堂の右手(向かって左側)に『寿老人の部屋』が設けられてあり、その奥の方の七福神掛け軸の前に寿老人像はお祀りされています。寿老人像はあまり大きいものではありませんが、すばらしく立派に、そして美しく彩
色されていて、白くて長い髭が柔和なお顔にとてもよく似合っています。ですから、気づいたときには、いつのまにか両の手が胸の前で合わさっていることでしょう。
寿老人像が本堂内に祀られているのは、七福神の中ではこのお寺だけです。ですから、寿老人をお参りしますと、幸いにも一緒に妙音寺ご本尊の不動明王尊像(弘法大師筆といいます。)や、前立ちの観世音菩薩像をお参りすることができるわけで、ありがたい限りです。
スタンプは庫裡で押印
寿老人像は、本堂内に祀られていますが、参拝記念のスタンプ(百円)は、庫裡で押していただくことになります。ですから寿老人参拝に先だって庫裡を訪れ、スタンプをいただいき、あわせて、ご住職に寿老人参拝の申し出をするとよいでしょう。無断で本堂内に入ることは謹みましょう。
寿老人は長寿を授ける
さて、お参りする寿老人とは、どういう福の神なのでしょうか。
寿老人は、長い頭に白いあご髭が特徴の福の神で、お参りをする善男善女に『長寿を授ける神様』です。妙音寺の寿老人は長い杖を手にした像ですが、一般
に寿老人像は、巻物を先につけた杖を持つお姿をしているのが普通で、その上さらに鹿を連れている福神像が多いようです。
長寿は人間古来からの夢であり大きな願望でもありますから、昔から多くの人々の熱烈な信仰を集めてきています。
ところで、寿老人は、とかく福禄寿(青蓮寺のところで記述します。)と混同されがちのようです。両福神ともに長い杖を持ち、巻物を持ち、長い頭で白いあご髭を有しているお姿をしていますので、お姿からは、混同されてもやむを得ないのかもしれません。
両福神の相違は連れている動物が違うのです。福禄寿の方は、寿老人の『鹿』に代わって『鶴』を連れていますので、両福神を見分けるポイントにするとよいでしょう
。
妙音寺の歴史と歴代住職
妙音寺は、不動明王をご本尊とする高野山真言宗のお寺です。ご存じの通り弘法大師がお開きになられた宗派のお寺ですから『南無大師遍照金剛』のお題目を唱える、歴史ある名刹です。しかし、残念ながら詳しい歴史の記録は残されていません。
寛成年間(一七八九〜一八〇一)と天保十三年(一八四二)の二度にわたって火災に遭い、古記録、什器、宝物などをことごとく焼失してしまったからです。
そのため開山、開基をはじめ歴代住職も不祥のままとなっています。寛政年間の火災では、安永七年(一七七八)に創建された境内の観音堂(百体観音堂)、庫裡が焼け、天保年間の火災では、再建したばかりの観音堂(百体観音堂・サザエ堂)から出火し、またまた庫裡、観音堂をも焼失、本堂までもが灰燼に帰してしまいました。 その後、たびたび本堂等再建の機運は盛り上がりましたが、その都度さまざまな障害が生じてしまい、長い間、仮本堂のままでの仏事の営みを重ねなければなりませんでした。そのため、一時は無住の苦境に陥ったことさえあったほどでした。
それが大阿闍梨祐旭師(大正十四年五月二十四日示寂)が住職となりますと、師のたいへんなご努力によって妙音寺の声価が高まり、大阿闍梨祐長師(昭和二十九年二月二十四日示寂)が大正三年(一九一四)に普山されますと、本堂再建の機運が、これまでになく大きく燃え上がりました。檀信徒の方々は万難を排して、五か年計画で浄財を集め、大正十五年(一九二六)、ついに着工にこぎつけました。そして着工三年後の昭和三年(一九二八)に見事落慶を見たのが現在の本堂です。当時としては、最新式鉄筋コンクリート造りの日本式建築本堂として近隣からたいへん注目されたようです。(この大工事当時の檀徒総代・斎藤長平氏は、庫裡の裏手の墓地で永い眠りにつかれています。)
ところで、こういった経過のうちに、識者の手により焼失を免れた仏像や墓地内の石造物などが詳細に調べられ「創建は、少なくとも四百年以上は経過していると推測される」までになりました。
また、◇天正年中(一五七三〜九一)は上野国新田郡宝泉村字脇谷正法寺末
◇安政二年(一八五五)高野山大乗院末 との記録もあります。
歴史ある古刹・妙音寺ではありますが、前述のように、二度にわたる火災によって古記録を失っていますので、開山は不祥ですし、法灯を守ってこられた歴代住職も今なお定かではありません。そこで、妙音寺は寺の中興に功績の大きかった阿闍梨祐元法印(寛政六年十二月示寂)を中興開山としています。
そういった状況の中にありましたが、その後の墓石等の調査によってかなりの住職が判明してきています。現在までに判明しました住職を示寂年代順に見ますと、つぎの方々となります。
歴代住職
重栄法印
勝誉法印(墓石銘・権大僧都法印清栄覚位)
良祐法印 良弘法印
祐厳法印
中興開山阿闍梨法印祐元
祐仁大法師
祐本法印
祐心覚全法印
建雄法印
大阿闍梨弘印法印
阿闍梨鳳霊法印
知賢法印
大阿闍梨祐旭法印
大阿闍梨祐長法印
祐尊法印
開基は玉上家説が伝えられる
妙音寺は歴代住職ばかりでなく開基も不祥です。しかし、「開基は、玉上家ではなかろうか。」という説が、郷土史家の間にあります。
その理由は、
◇墓地が、妙音寺の墓地の中で最もよい位置を占めている。
◇江戸時代初期のものという古い墓石があり、その上、江戸時代後期になると一段と大きな墓石が造立されている。
◇妙音寺でも、玉上家を開基の家待遇をしている。
玉上家は、桐生絹市を三七の市に改め、繁栄に努力をした玉上甚兵衛を祖にもつ、桐生の名家として知られています。
妙音寺は東上州三十一番札所 妙音寺は、江戸時代中期に尭観道心(別
説もあります)によって開かれた「東上州観音札所」の三十一番札所になっています。伝行基作・十一面
観音像安置と、かつて百体観音堂(サザエ堂)を有していた名刹であったことに由来しているものと思われます。
御詠歌
妙なりし 音久方にたずねきて 御法のゑんに あふぞうれしき
現在では百体観音堂にかわって、本堂に観世音古仏が安置され、さらに本堂の前に十一面
観音と如意輪観音の二体を脇侍とする、珍しい不動三尊仏(石仏)が祀られています。不動三尊仏は、
矜羯羅(コンガラ)童子と制多迦(セイタカ)童子が並び立つのが通常ですので、この珍しい三尊仏に対面
するということだけでも、お参りする意義は大きいと言えましょう。
なお、準四国の札所にもなっていて
、 ◇誠にも神仏僧をひらくれば 真言加持のふしぎなりけり
◇極楽の弥陀の浄土に行きたくば なむあみだぶつ久ち久勢にせよ の御詠歌も伝えられています。
境内に多くの石仏を安置 本堂前の不動三尊仏のほかに、境内にはたくさんの石仏が安置されています。寿老人参拝と同様に、ぜひ、これらの石仏群もお参りしたいものです。
まず駐車場のアカマツの下に庚申塔10体、 馬頭観音4体、 二十三夜塔1体、大師堂の前に「 (キリーク)」と刻んだ種子阿弥陀如来塔一体、その奥に不動明王・馬頭観音各1体、本堂手前の石段脇に地蔵菩薩2体、普門品供養塔・千部供養塔・青面
金剛明王塔各1体が参拝できます。(妙音寺の寺域概要を参照してください。)
ことに千部供養塔には、「野州下菱西善院(元文五年・一七四〇造立)」の銘があり、郷土史家の目が注がれそうです。西善院とは、室町時代(一三九〇〜一五九五)の菱領主・細川家の菩提寺だからです。主家が滅亡し廃寺となった西善院の名が、元文五年造立の供養塔に見られるということ、妙音寺と西善院とのつながりは? といった点に、大変に興趣をそそられるからです。桐生鮮魚商組合で建立した「うなぎ供養塔」も一見の価値があります。
造立年や銘文などを調べながら、これら石仏たちを巡拝してみるのも楽しいのでは-----
と思います。
六地蔵建立者は市内の旧家
山門をくぐって最初に出会う六地蔵石仏は、妙音寺の顔のひとつです。地蔵像に刻まれている建立者名を見ますと、それとうなづけます。
建立者名には、桐生市内の旧家として知られる、次の方々のお名前が見られるからです。
栗原吉兵衛 同 粂蔵 林 次兵衛 玉上一家中 池田屋傳蔵
田村林兵衛 東屋 吉蔵 穏やかな六体の地蔵菩薩の相を拝しますと、心が自然に和んでくるのがわかります。
水屋の手洗鉢は必見
墓地の入り口に建つ水屋の手洗鉢は、必見したいものです。名だたる名家の名が彫られていることもありますが、手洗鉢が名工輩出で有名な信州(長野県)高遠藩の石工の作品だからです。
昭和50年代後半に、県教育委員会で県内の高遠藩石工の作品調査を実施しましたが、この手洗鉢は、そのときの調査ではもれてしまっていると思います。それだけに、ぜひご覧いただきたい文化財でもあります。
参考のために、手洗鉢に刻まれている寄進者銘の一部をつぎに記録しておきます。
三町目講中 開眼発願人 書上文左衛門 玉上善右衛門 佐羽清右衛門
佐羽吉右衛門 粟 田 重 藏 野州猿田 萬屋 庄次郎 江戸八丁堀 大坂屋太兵衛
衆生院 義圓 錦 屋 直 助 大 川 忠 八 藤 巻 喜 八 鈴木 徳兵衛 (他に桐生、前橋、粟谷、松田、足利などから九十一名の連名)
石工 信州高遠清口村 高 見 半 兵 衛 本堂と、この水屋との間には、小さな池と石宮、それに、
阿里志日の(ありしひの) 面影しのび 墓参可南(ぼさんかな) 翠 堂
と刻まれた句碑を見ることができます。
おわりに
寿老人と妙音寺のお参りは、このあたりで終わりにしたいと思います。寿老人と妙音寺を参拝しまして、みなさんは、どんな感想をもたれたでしょうか?
それでは、寿老人やご本尊、多くの石仏たち、そして文化財に別れを告げて、つぎの札所『大黒天の寺・妙蓮山法経寺』へ参ることにしましょう。