大黒天の寺・法経寺

   法経寺への道

 大黒天をお祀りする妙光山法経寺は、身延山久遠寺を総本山とする日蓮宗のお寺で、所在地は西久方町一丁目七−二六です。
 寿老人の寺・平等山妙音寺から、この法経寺へ至る道のりは、およそ六〇〇メートル。平坦な道の歩みで、次のように進むことになります。
 妙音寺に別れを告げて再び山手通りに出て、そこから北上します。山手通りに出ますと、左側の高台に幼児の学び舎・市立北幼稚園が見られます。ウィークデーならば、そこから元気でにぎやかな園児たちの嬌声が、皆さんの耳に飛び込んでくることでしょう
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 その北幼稚園の前に架かる歩道橋をくぐりますと、もう眼前に県立桐生工業高校の校舎と、春先に見事なまでに美しいピンクの並木を構成してくれる、桜の古木の列が見えてきます。戦後間もなくのころの桐生工高校の木造校舎をご存じの方ならば、あまりにも立派に変容した鉄筋の校舎に、ついつい見とれてしまうに違いありません。
 校舎に見とれ、桜の古木に見とれての歩みを続けていますと、山手通りは、やがて桐生工高校正門前から伸びて来た道路と交わる十字路になります。そこが法経寺への入り口です。進行方向左側の電柱のそばに「桐生七福神 大黒天 法経寺」 「開運甲子大黒天 法経寺」という二つの看板が立っていますので、容易にそれとわかりましょう。
 看板を見て左折し、少々進みますと小さなY字路となりますので、さらに左側の小道へ入ります。すると前方に「身延直末妙光山」「日蓮宗法經寺」という刻字に朱の入った門柱が見えます。法経寺の山門です。サクラの四月に法経寺を訪れますと、この山門周辺から、本堂、大黒殿、境内一帯にシダレザクラ、 ヨシノザクラなど沢山の桜の木々が、精一杯に花びらを広げて、参拝者に春欄満の自然美をプレゼントしてくれます。

   大黒天は大黒殿内に安置される  
 山門を入りますと、タマヒバをはじめとして沢山の木々が植栽された境内が広がります。几帳面 なまでに手入れの行き届いた境内で、まさに『庭園』です。その立派な境内に、これまた立派な大黒殿が建っています。目指す大黒天像は、その大黒殿内に祀られています。 市内の七福神のうちで、これほど立派な独立堂内に祀られている福神は、この大黒天像だけです。法経寺の大黒天は、市内の福神の中では、特に恵まれた福神と言っても過言ではないでしょう。
 ところで、この大きくて立派な大黒殿に祀られる大黒天像は、建物の大きさにそぐわない感じのするほど大変に小さな像です。そのため大黒天像の姿・形は定かには拝めませんが、御利益はご神体の大きさに関係ありません。祈願の成就を両の手に託してみたいものです 。

   大黒天は福徳の神  
 大黒天像は、狩衣(かりぎぬ)に似た衣服を着て大黒頭巾をかぶり、左の肩に大きな袋を背負い、右手に打ち出の小槌をもって米俵の上に乗る姿が一般 的です。大国主神と習合し福徳の神として、また商売繁盛の神として、昔から人々の大きな信仰心を集めてきた神様ですが、地方によっては食物の神として崇めており、厨房にも多く祀られています。
 また大黒天は、かつて仏教界において三宝(仏・法・僧)を守護し、戦闘を司る神様とされた時期がありました。わたしたちは、大黒天を福徳の神として崇め、ニコヤカにほほ笑まれる柔和な慈悲相のお姿のみを脳裏に思い浮かべがちですが、仏教界における大黒天は、戦闘神としての位 置づけから、わたしたちの目に触れることの多い大黒天像とは、似ても似つかない大忿怒相(怒りの相)という怖い相をされているようです。
 七福神めぐりの法経寺で、皆さんが両手を合わせる大黒天は、戦闘神の大黒天ではなく、福徳の神様、慈悲相の神像であることは言うまでもありません。

   祭祀は荒行の末に認可される  
 日蓮宗では、どのお寺でも大黒天をお祀りしているわけではありません。宗門の定めとして日蓮宗の荒行を滞りなくすませた住職のお寺のみが、特別 に祭祀を認可されるものです。法経寺の大黒天もそのとおりで、当時の住職が荒行修行をされた後に認可があり、大正四年(一九一五)にこの地に祭祀したものです。
 当初は、現在の大黒殿と対峙した「法界万霊供養塔」の近くに小堂(面積およそ一坪=三・三平方メートル)を建てて祀りました。それが信徒の積極的な喜捨によって、近年、現大黒殿建立を見事に実現させ、大勢の善男善女の参詣に応えるようになりました。  六十日ごとに訪れる甲子(きのえね)の日に開催される『開運甲子大黒天祭』には、各地から大勢の人々が参詣に訪れて、立派な大黒殿にふさわしい賑わいを見せてくれます。

   スタンプは大黒殿で押印を
 大黒天のお参りがすみましたら、記念のスタンプをいただくことになります。このスタンプは、大黒殿入り口に設置されてある机の引き出しの中にあります。スタンプ押印料(百円)を入れて、自身で押印することになっていますので、押印の際は、
  ◇ていねいに印を扱うこと
  ◇必ずスタンプ台の蓋をして元にもどすこと を参詣者のエチケットとして、お互いに守り合いましょう。

   法経寺の歴史
 ここで法経寺の歴史を少々ひもといてみましょう。
 法経寺は、明治二十三年(一八九〇)創建という、市内では比較的歴史の浅いお寺です。この成り立ちは、桐生金子家の始祖と伝えられる「金子美作守源左衛門尉全吉入道秀長(武蔵七党の流れをくむ)墓碑」の側面 に、
 『秀長は慶長六年六月(一六〇一)桐生久方郷で遷化し、同所鬼窪に葬られた。その後、三百五十年余を経て寺域が荒廃したため、法経寺境内に墓地を移した。法経寺寺域は金子一族が寄進したものである。』 と、いった内容の碑文で残されています。一つの参考資料になりましょう。
 寺創建後、四世・日正上人、五世・日遠上人のときに、両上人ともに日蓮宗大荒行堂で入行し、祈祷寺としての法経寺の一層の興隆をはかられました。中でも日正上人のお位 牌には「中興開山」の四文字が刻まれていること、墓碑に「聖人」の文字が刻まれていることからみますと、日正上人が法経寺の発展に尽くされたご功績が、いかに大きかったかを伺い知ることができます。どちらの称号も、日正上人の抜群のご功績を讃えて贈られたものでしょう。
 六世・日秀師(現住職)は、尼僧のため荒行入行こそしませんでしたが、霊断法という日蓮宗の秘法を習得して信徒の信を集め、寺観を一新して現在の法経寺を成り立たせました。これも両上人同様に、寺史に特筆すべきことでしょう。  ところで、墓地の入り口近くには、寺院には珍しい「最上位青石稲荷大明神」が祀られています。
これは、創建当時、すでにこの地に祀られてあった稲荷社を、開山・日徳聖人が現在地に改めて祭祀したものと伝えられます。稲荷社は、開山の温かで細やかな心くばりの程を現在に伝える社殿なのです。 また、法経寺西側の山は「物見山砦趾」です。室町時代に北関東の雄と称えられた桐生氏の居城・桐生城の支城として知られる、かつての「物見山砦」なのです。この寺域から、法経寺は『史跡を懐にして栄える寺』と言っても過言ではありません。
 寺歴はまだ浅いとは言え、寺域が桐生氏と縁りの深い史跡・物見山砦趾に拓けていること、初代檀信徒代表に元農林大臣・長谷川四郎氏を招いていること、次いで元県議会議員・腰塚国光氏を迎えていることからも、寺の充実・発展に向けた創建当初の住職・檀信徒の意気込みと言ったものが、わたしたちにヒシヒシと伝わってきます。

   開基と歴代住職
   開    基
   法経寺は、現在のところ開基についてはつまびらかにされていません。先般 発行された『積善・桐生のお寺』でも「開基不詳」となっています。
 一つの説として、「江戸の旗本・花房志摩守の家臣だった能登谷金次郎が開基」とする文献(桐生市史)もありますので、一応は傾聴したいところですが、法経寺の縁起では、 「能登谷金次郎は、美作(岡山県)出身の武士で、出家して宗門史上有名な備前法華の流れを汲む上人となられた方である。別 説には、赤城山滝沢に修行道場三宝堂を建て、そこの大滝に打たれて修行した、日蓮宗には数少ない法華山伏ではなかったかという古老の伝承もある。どちらにしても、能登谷金次郎は開基ではなく当山の開山。」 と述べられています。このことから、ここでは、その法経寺縁起を取り上げ、『開基は不詳』としておきます。文献にある説との相違については、郷土史家や歴史・宗教研究者等の今後の研究成果 に委ねたいと考えます。
   歴代住職
    歴代住職は、現住・日秀師で六代目となります。これまでの法経寺は、植物に譬えるならば「土壌づくり、種蒔き、そして発芽の時代」だったといえましょうが、今後は「育成・成長の時代」に入るわけです。それだけにこれまでに倍する寺院の充実・発展にむけての苦難と喜びとを住職・檀信徒が共に味わう時代に入ったと言えましょう。
 開山は、最上稲荷社に隣接して建てられている、『開山堂』において永い眠りに着かれています。また、一世紀近くに亙ってお寺の法灯を守り、伝統を築き上げられてこられた、開山〜五世の墓所は、開山堂の右手に見られます。


開山 信行院日徳聖人    
二世 桜井院日竜上人    
三世 林行院日貞上人    
四世 遠照院日正聖人    
五世 玄明院日遠上人    
六世 妙壽院日秀上人
七世 佐藤海仁師(現住)  

  ぜひ境内の参観も
 さて、法経寺訪問の目的の『大黒天』のお参りが滞りなく済みましたら、ぜひご本尊さま参拝や境内参観をしてみたいものです。
 その参拝・参観のためのいくつかのご案内をしてみます。
  ご本尊
   法経寺のご本尊は、釈迦如来(久遠実成釈迦牟尼仏)です。お祀りされている本堂の位 置は、大黒殿の少し上手にあたります。ここでは、両手を合わせて静かに「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えましょう。
 春先のシダレザクラ開花どきの本堂周辺の風景は、とても素晴らしいものです。豊かな自然と手入れの行き届いた境内地に安置されるお釈迦様は、そのままで、弥陀の浄土にあると言ってもよいほどです。
上人像
  本堂の右手には、上人像が注ぐ日の光にまぶしく輝いています。像は、もちろん日蓮宗の開祖・日蓮上人(立正大師)の像です。
 日蓮上人は鎌倉中期(貞応元年・一二二二〜弘安五年・一二八二)の方で、16歳(12歳説もあります。)で出家されました。そして、比叡山をはじめ諸寺で修行を重ねた後、「法華経によってのみ、末世の国家の平安もありうる」ことを悟られ、建長五年(一二五三)に日蓮宗を開かれました。そして故郷の安房国(千葉県の南部)に戻られて、法華経の信仰を強く広げようと布教に努められました。
 しかし、念仏者との対立が生じてしまったために、一旦は鎌倉に出ての布教にうつりましたが、上人の心が当時の人たちにはなかなか理解されず、かえって上人は伊豆や佐渡へ流されたり、様々な迫害に合うといった多くの困難・至難・弾圧に合われました。  その艱難辛苦にもめげず、その後も布教に意を注がれましたが、上人の説く法華経や国を思う心は、なんとしても鎌倉には入れられなかったため、上人は身延山に隠棲して、しばらくの間、弟子や信者の指導に当たられました。
 弘安五年(一二八二)、上人は意を決せられ、またも身延山をたって関東に向かいましたが、思いも空しく、途中の武蔵国(東京都・埼玉 県)の池上氏館内で没せられました。61歳の遷化でした。 本堂近くに建つ日蓮上人像は、はるか彼方を凝視して合掌を続けるお姿が彫出されています。これは、法華経布教を決意されたときのお姿なのかもしれません。
  報恩記念碑
   上人像の上隣りには『報恩記念碑』が建っています。「宗祖第七百遠忌」の記念に建立された碑で、    宗祖第七百遠忌記念        我れ日本の柱とならん    南無妙法蓮華経 我れ日本の眼目とならん    我れ日本の大船とならん     昭和五十六年十月十八日           管長大僧正池上八十世日威          六世妙寿院日秀代 との銘が見られます。
 『我れ日本の・・・・』は、日蓮上人が法華経の布教を決意されたときの、有名なお言葉です。  この記念碑のすぐ隣りには、  軒ふさく 松暮れそめて 梅雨に入る 星零子 と、流暢な文字が碑面におどる句碑もあります。
  開山堂
  日蓮上人像脇の階段を登っていきますと、正面に瀟洒な建物の開山堂があります。名称は開山堂ですが、法経寺開山・信行院日徳上人の立派な御位 牌を中心にして、歴代住職の御位牌も安置され、眼下の法経寺の変遷・発展を見つめ続けられています。
  最上稲荷社
   最上位青石稲荷大明神を祀る稲荷社は、開山堂の向かって右手にあります。開山堂への階段を登る途中で右の階段に入っても、この稲荷社の前に出られます。
 寺院の境内地に農業神・稲荷大明神が祀られている理由は、既に記述したとおりです。
    聖子観音
 開山堂の下手隣りに「聖子観世音菩薩」像が祀られています。各地の寺院に見られる水子地蔵と同じ祈りと願いがの込められた観世音菩薩で、像の後ろ側にはたくさんの水子供養の卒塔婆が立ち並んでいます。
 像は昭和四十八年という新しい建立ですが、聖子観世音像そのものは、かなりの年数を経ている素晴らしい金銅仏ですので、像のいわれを寄進者にお尋ねしたいほどです。聖子観世音像は、法経寺の『露天の文化財』と言ってもよいようです。
  妙力竜王天塔
   境内の北の端の山の中腹に「妙力竜王天塔」があります。
    如来秘密 南無妙法蓮華経 妙力龍王天 神通之力 の銘があります。
 今でこそ、近辺の田圃の面積は極端に少なくなりましたが、昔は法経寺周辺一帯が田圃で、初夏には早苗を風にそよがせ、秋には黄金の稲穂が頭をゆすらせていたと言います。その名残りでもないでしょうが、竜王天塔の前には、今も溜め池だったと思われる小池があることからも、かつては、ここで雨乞いの祈願が行われたことがあったものと思われます。
 近くに巳像が祀られています。巳は、言うまでもなく蛇であり、弁財天をあらわします。その昔、弁財天は、水を司る神様であり農業の神様でした。このことからも竜王天との組み合わせで「雨乞い」祈願の姿が浮かんできます。
 この考え方の正誤は別にしても、竜王天・巳像ともに市内では珍しい塔ですので、足元に注意しながら足を運んで、塔に対面 してみる価値は大いにあります。
 この二体の石造物の間には、大きなガマの像も祀られています。「蛇と蛙の組み合わせは、山歩きでの事故を防ぐ」と伝えられているそうですので、そのことに絡めての祭祀かも知れません。事故には「マムシの害を除く」ことも含まれているのでしょうか。

     おわりに
 大黒天の寺・妙光山法経寺を参詣されて、皆さんは、まったく寺歴の浅いことを感じられなかったことと思います。それほどに法経寺は充実されたお寺であり、今後とも発展が約束されているお寺でもあるのです。わたしたちも、法経寺の明日からの着実な発展への歩みを期待を込めてみつめていきたいものです。 それでは、大黒天、ご本尊、日蓮上人像等に別れを告げて、次の「福禄寿の寺・仏守山義国院青蓮寺」へ参ることにしましょう。