毘沙門天の寺・鳳仙寺

    鳳仙寺への道   鳳仙寺ホームページへ

 毘沙門天像を祀る第六番札所・鳳仙寺は、「桐生山」という素晴らしい山号をもつ曹洞宗常法幢別 格地のお寺で、所在地は梅田町一丁目58番地です。寺域全体が緑豊かな大自然の山ふところに抱かれた、東毛第一の名刹です。
 恵比須神の寺・久昌寺から、ここ毘沙門天の寺・鳳仙寺へ至る道順は、桐生七福神の中では法経寺=青蓮寺間に次いで短い距離の、およそ800mの近場に在ります。
 さて、鳳仙寺への道ですが、久昌寺の参拝が済みましたら、再び県道(主要地方道桐生・田沼線)へ出て梅田町方面 へと歩みを進めましょう。歩き始めますとすぐにガソリンスタンド『長沢石油桐生天神町給油所』の看板が見られます。それを右に見ながら、そのまま直進します。  
  歩む県道の周辺は、ほんの十数年前まで田畑だった場所ですが、今は、すっかり住宅・商店・医院などで埋め尽くされて様変わりをし、右側にある市指定史跡・梅原館祉も、うっかりしていると見過ごしてしまうほどです。
 その大きく変容した地域を左右に眺めながら歩を進めますと、右手前方に県立桐生女子高校の白亜の校舎が見えてきます。その桐生女子高校の一〇〇メートルほど手前の左手に「桐生山鳳仙寺」と書かれた大きなローソク型の柱と、「自然と歴史と文化の郷・群馬百選の一・桐生山鳳仙寺入口」と書かれた大看板、「桐生城主由良家菩提所・史跡文化財・桐生山鳳仙寺」と書かれた小看板とが見られます。それらを見て左折しますと、そこは、もう、 お目当ての鳳仙寺の参道です。(参道は、正確には1キロメートルほど市街地寄りになっています。)  
 歩んできた県道の周辺は、住宅などで埋め尽くされ都市化されて、すっかり昔の面 影を消え失せさせていましたが、この参道に一歩足を踏み入れますと、人里から離れた緑の多い幽玄の景に触れることができます。
 その緑に包まれた別天地に心身を心地よく洗われながら、さらに歩み続けますと、やがて威徳の滝・雨降り地蔵(大阪夏の陣のさくら)、それに市指定重要文化財の山門と輪蔵、イボ地蔵たちが、そろって参拝者を迎えてくれます。
 東毛地域の貴重な文化財である、雄大な山門をくぐりますと、正面に壮大な本堂の姿が見られます。これら多くの文化財を目にしたとき、参拝者は、すでに霊地の真っ只中に在るわけです。  さあ、心身を清浄にして、毘沙門天のお参りをしましょう。
    

 毘沙門天は本堂内に祭祀
 お参りの目的とする毘沙門天像は、江戸時代の建築様式を色濃く今に伝えているという本堂内に祀られています。本堂の敷居をまたぎますと、正面 やや左寄りに、宝塔を左手にし三叉戟を右手にした古像が安置されています。その古像が毘沙門天像です。
 お参りするにあたっては、正面奥の内陣に祀られるご本尊(釈迦牟尼如来三尊仏)を先ず拝まれてから、毘沙門天像に手を合わせるのがよいでしょう。
  毘沙門天は福徳を授ける  毘沙門天は多聞天とも称され、四天王の一人として北方を守護(他に東方・持国天、南方・増長天、西方・広目天)する仏です。それが、後に七福神の一人に迎えられて、福や財をもたらす福神として、盛んに信仰されるようになりました。
 今でも毘沙門天は、仏法を守護し福徳を授ける仏・神として、多くの人々から信仰されています。ことに鳳仙寺の毘沙門天は、 金運・開運・厄除け・学業成就にも霊験あらたかですので、心して祈願されるとよいでしょう。
 像容は前述しましたように、限りない財宝を授与する宝塔と、武人守護の力を発揮する三叉戟(または宝剣・宝棒など)を手にする、武装した武人の姿をしています。そして忿怒(怒り)の相をして岩座(または邪鬼)の上に立つのが一般 的です。
 鳳仙寺毘沙門天も、この儀軌にのっとって造像されています。

    スタンプは本堂で
 毘沙門天像参拝記念のスタンプは、本堂内でいただきます。ここ鳳仙寺も押印料(百円)を納めて自分で押印することになっていますので、ていねいに押印し、毘沙門天像参拝のよい記念にしましょう。
 なお、その他の参拝記念品としては、鳳仙寺由緒略記・鳳仙寺全図・絵馬・御札・お守り・交通 安全シールなどなどが豊富にあります。いずれも無人頒布となっています。この無人頒布は、参拝者とお寺の信頼関係を強く感じさせるありがたい方法ですので、参詣者は、この信頼関係を絶対に失わないようにしたいものです。
  鳳仙寺の拝観を  毘沙門天像参拝が済みましたら、名刹・鳳仙寺の拝観をぜひ行ってみたいものです。
  開創  鳳仙寺は、天正元年(一五七三)に桐生新領主となられた由良成繁公が、翌二年(一五七四)に、自らの菩提所として伽藍を創建し開山しました。
 山号・寺名を選定するにあたっては、寺域が豊かな自然に抱かれた、静寂閑雅な別 天地であったことにのっとり、寺名を唐人白山の『鳳凰飛舞仙人遊楽之霊地也』からとって『鳳仙寺』とし、山号を瑞兆の帰結から『桐生山』とされました。
 当時は、勅使門の備わった見事な伽藍と名田百石余とがあり、その上、朝廷より勅賜号・禅師号を賜わった高僧・仏広常照禅師を開山に迎え、名実ともに東毛第一の名刹として威容を誇りました。また、常時四十余人の雲水が参禅修学して、教導をうける一大道場としても、高い知名度を有しました。

    宗派  鳳仙寺の宗派は曹洞宗です。
曹洞宗は、高祖・道元禅師、太祖・瑩山禅師を両祖と仰ぎ、私たちのかけがえのない人生の師として帰依しています。そして、両祖の教えに叶った信仰生活を確立し、『人間の尊厳を保持しながら、無常の世を無常のまま生きる座禅の生活こそ、その極意であるというお釈迦様の教えを正しく伝え、その実践につとめている』宗門です。 さらには、 生命の尊さの自覚、 一人びとりの人権の尊重、 世界平和の実現、 自然環境との調和をも目指し、 21世紀の真の光明となるよう精進している宗派でもあります。
  本堂
 本堂は、落慶(天正二年・一五七四年)以来、幸いにも火災、その他の災害に逢うことなく現代に至っています。  創建以来、星霜すでに四百二十余年----- 。落慶当時の建築様式を遺憾なく今に伝えている建築物で、 市指定重要文化財となっている山門とともに、 貴重な建築文化財と言えましょう。
 また、内陣の荘厳なこと、堂内がどっしりとしていて、おごそかさを強く感じさせること、豊かな歴史の跡を随所に残している造りであること等々、歴史の重みをそこここに感じさせてくれる本堂です。 ご本尊 ご本尊は釈迦牟尼如来仏を主尊とし、普賢菩薩(白象に乗る)と文殊菩薩(獅子に乗る)を脇侍にする釈迦三尊仏です。このご本尊は、開山当時からの古仏で、現在は、鳳仙寺の寺宝となっています。
 ご本堂では、まず、ご本尊に手を合わせて「南無釈迦牟尼仏」の唱名を唱えるとよいでしょう。
   山門(楼門) 山門は、 桐生市指定重要文化財(昭和63年指定)となっている、立派な建築物です。とくに禅宗様式を見せる山門隅部・扇軒支輪・逆蓮頭などには注目したいところです。  ここには『桐生山』の山号を記した大扁額が掲げられてありますし、山門中央の竜をはじめとする十二支の見事な彫り物、増長天(室町時代)・持国天像(室町時代)、仁王画像などを拝観することができます。じっくりと時間をかけて拝観したい建築物の一つです。
  常磐殿「開山堂」
 本堂に向かって左側にあるのが、開山堂です。道元・瑩山両祖、開山・勅賜仏広禅師ほか、歴代住職の木像や御位 牌が祀られています。
  常磐殿「秋葉堂」
 鳳仙寺鎮守のお堂で、「秋葉山三尺坊大権現」といいます。昔の桐生は火災がとても多かったことから、桐生の人々の火盗消除・家内安全のほか、諸願成就を願って明治十四年(一八八一)に静岡県の秋葉総本殿より奉安したものです。
  輪蔵
 山門前に建つ白壁の蔵が輪蔵で、天明三年(一七八三)の建築と伝えられています。これも昭和四十五年に市指定重要文化財となりました。
 輪蔵内には、延宝七年(一六七九)版行の鉄眼版一切経六千九百五十六巻が収蔵されています。
    イボ地蔵
輪蔵と対面している石像がイボ地蔵です。「山いもの実で数珠のような首飾りを作り、それを地蔵の首にかけ心を込めて祈願をすると、体のイボを取り去っていただける」という、民間信仰が今も生きています。しかも体のイボだけでなく、心のイボ(悩み)までも取り去ってくださるというありがたい仏様です。これにまつわる楽しい民話が、現代に息づいています。  なお「地蔵」と呼ばれてはいますが、像は「薬師如来」です。薬師如来が、どうして地蔵菩薩と呼ばれるようになったのかは、分かっていません。
  梵鐘
 本堂内に大きな梵鐘が安置されています。この梵鐘も市指定重要文化財(平成元年指定)となっています。寛永十八年(一六四一)作という、市内最古の梵鐘で、名工・藤原朝臣江田讃岐守安重の作品です。
 この梵鐘の鐘楼でのお勤めは、先般、二代目梵鐘に譲られました。市指定重要文化財に指定され、長いお勤めからも解放された梵鐘は、今は本堂内で、ゆとりある静かな生活を営まれているわけです。
  その他
 その他、本堂前のカヤの木(保存樹)、勅使門跡、総門、石幢、地蔵仏頭、十六羅漢像、住職使用の駕籠(江戸時代)、半鐘、威徳の滝、大阪夏の陣のさくら、鳳仙寺鎮守三社(天神山護法大善神・白山妙理大権現・土地護伽藍神)などなど、眼前に見られる文化財だけでも枚挙のいとまがありません。所蔵文化財(古文書・絵画・ほか)ともども、まさに鳳仙寺は、文化財の宝庫なのです。
 また、四月中〜下旬に訪れますと、周囲の山々のツツジが満開で、「真っ赤に燃えるよう」な自然美をも堪能することができます。

     開基と開山・歴代住職
  開基
 開基は、桐生領主・由良信濃守成繁公です。成繁公は知将の誉れの高かった武将で、人心を把握することが巧みで、それらを生かして善政を敷いた領主でした。また信仰心も厚く、曹洞宗に深く帰依された領主でもありました。成繁公が、戦国時代という乱世の中で由良家の全盛期を築き上げたという立派な実績をみましても、いかに知将・名将であったかが伺い知れましょう。
 成繁公は、桐生入部五年後の天正六年(一五七八)に、嗣子・国繁公に治世をゆだねて卒去され、ました。成繁公の葬儀には、威儀を正した大勢の武将たちが境内を埋め尽くして、別 れを惜しんだと伝えられています。
 法名は『鳳仙寺殿中山宗得大居士』。墓は五輪塔で、本堂裏手の歴代住職墓所前に安置されています。 開山  開山は、朝廷より勅賜号・禅師号を賜ったほどの高僧・仏広常照禅師(金竜寺七世・貫芝梵鶴大和尚)です。禅師は、鳳仙寺住職としてお勤めなされている間に、開基・由良成繁公逝去という大事に会い、その葬儀を実に盛大に厳かに執り行っていることが、後世に伝えられています。
 開山墓は、本堂裏手の歴代住職墓所の中央に祀られる無縫塔がそれです。
  歴代住職  法灯実に四百二十余年。開基が桐生城主であったこと、また領主菩提寺であったこともあって、開創の時からすでに寺門は繁栄していました。天正十八年(一五九〇)に、最大の庇護者であった由良氏が、常陸の牛久(茨城県)に転封され、桐生城が廃城となった寺運営の一大危機も、幸い徳川家の庇護が得られて、それを乗り越えて来ています。
 しかし、その後の法灯維持には、廃仏毀釈をはじめとする諸々の世相の変動もあり、困難な時期が多々あり、常に順風満帆の時ばかりはなかったろうことは、十分に推察できます。  長い歳月の中で鳳仙寺の法灯を厳として維持し、歴史の誇りを見事に担ってこられたご住職は、現住・坪井良廣(百山良廣)師で三十五代目となります。
 その歴代住職名を、次に列記してみましょう。

開  山  勅賜仏広常照禅師   
第 二世  黙之宗艾大和尚         
第 三世  大円門鶴大和尚   
第 四世  解翁梵宥大和尚   
第 五世  長含貫固大和尚   
第 六世  由山春養大和尚   
第 七世  儀拈牛把大和尚
第 八世  応山牛喚大和尚    
第 九世  重山天両大和尚   
第一〇世  一天慈海大和尚   
第一一世  曲外嶺松大和尚   
第一二世  大仙嶺隠大和尚   
第一三世  敏山嶺苗大和尚   
第一四世  劫外嶺春大和尚   
第一五世  桃源嶺仙大和尚   
第一六世  乙堂喚丑大和尚   
第一七世  黙外寂曜大和尚   
第一八世  周外全鼎大和尚   
第一九世  梵鼎周如大和尚   
第二〇世  弁外周鼎大和尚    
第二一世  機外大俊大和尚   
第二二世  愚海春宗大和尚   
第二三世  慶山法春大和尚   
第二四世  大亮謙道大和尚   
第二五世  穆山瑾英大和尚   
第二六世  蘭州朴道大和尚   
第二七世  慈海観道大和尚   
第二八世  穆光慧観大和尚   
第二九世  俊峰視英大和尚   
第三〇世  黙室秀禅大和尚   
第三一世  実山隆道大和尚   
第三二世  桐山真鳳大和尚   
第三三世  百丈不昧大和尚   
第三四世  百仙良栄大和尚   
第三五世  百山良廣大和尚(現住職)

 開山をはじめ、歴代住職の墓は、本堂裏手の開基墓所の隣りにあって、日々変わり行く激動の世において鳳仙寺がいかに変容し、発展していくのかを今も見つめ続けておられます。

     おわりに
 毘沙門天像、そして鳳仙寺の参詣はいかがでしたか? 桐生七福神めぐりだけを目当てにして鳳仙寺を訪れた参拝者は、きっと、 「こんなに拝観するところが多くては、とても時間が足りない。」 と、感じられたことでしょう。
 その反省にたって、ぜひ、再度、「鳳仙寺参詣」という特別な時間を設定してみてはいかがでしょうか。そして、納得のいくまで参拝し拝観をしてみてください。  では、毘沙門天の寺・鳳仙寺の参詣は、この辺で切り上げることにして、第七番札所『布袋尊の寺・梅田山西方寺』へ向かうことにしましょう。