祥 雲 寺 の 記 録

   開基は高橋丹波守橘元英公
   桑田から関東に下向 由良氏に仕えて活躍する  祥雲寺の開基は、由良氏の家臣だった高橋丹波守橘英元公(市内境野町七丁目九七在、 檀信徒総代・高橋光二氏の御先祖)です。
 室町時代の中頃(十五世紀)のこと、英元公は父・政種公に連れられて、弟・政直公(後の隠岐守。今泉村開拓者)とともに丹波国(京都府)桑田から関東に下向し、下野(栃木県)の足利学校に居住しました。 (関東下向の理由は定かではありません。) その足利学校居住中に父・政種公の根回しによって、英元公は、政直公ともども由良氏に仕官することになりました。  英元公は、仕官が叶いますと由良国繁の家臣として、那波郡堀口村・山王堂(旧佐波郡、現在の伊勢崎市堀口町)の永百貫文の地を給せられ、小弓物頭に任ぜられました。
  ※ 永百貫文は、米百石、金百両に相当します。当時の足軽の年給が四〜五貫文であったことからも、その価値が推量 できましょう。
 その後、輝かしい武功と年功とにより、英元公は由良氏の桐生領有後に、下広沢村十五貫文の地を加増され、領主・由良成繁公の弟で家老の横瀬勘九郎公と共に在番(大口番頭)となりました。このころ英元公は、武術や知略に長け「由良氏四天王」の一人に挙げられるほどに成長し、由良氏の誇る武将の一人として、その名を連ねるまでになりました。
  境野村開拓に着手
 元亀四年(一三七五。天正に改元の年)三月十二日、由良・桐生両氏の合戦となり、由良氏が勝利して桐生の新領主となりました。その由良氏が、国繁公の代の天正十七年(一五八九)、豊臣秀吉公が天下統一を目指した北条氏攻撃のときに、小田原城に籠城して秀吉公に敵対しました。 このことから、北条氏の滅亡後、由良氏は秀吉公によって桐生領を没収され、常陸牛久へ減封(五千石)となってしまいました。
 家臣たちは、国繁公に牛久随従を申し出ましたが、禄高が三分の一に減らされての転封では、家臣たちの願いは叶いません。そのため、多くの家臣は武士を捨て桐生領内に土着せざるを得ませんでした。 「由良家四天王」の一人として、堀口村(現・伊勢崎市堀口町)と下広沢村(現・桐生市広沢町六丁目周辺)を領し、活躍をしていた英元公も、その一人でした。
 英元公は由良氏の牛久転封後、一旦は旧領・堀口村へ帰郷したのち、しばらくして諸国回国の旅に出立しました。しかし回国からもどりますと、大久保(浜の京地区と松宮地区の間あたり)に居住していた子息・泰種公のもとに同居し、親子共働の農業生活、さらには境野原開拓の仕事に入りました。境野村開拓の祖といわれる所以です。
 この開拓に入って間もない慶長三年(一五九八)に、英元公は大久保の地に小堂宇を建てました。そして横山源作という家臣を出家(法名・玄浦)させて小堂宇を守らせました。おそらくは高橋家先祖代々の供養と、一族の安寧、子孫繁栄を願っての小堂宇建立だったことと思われます。
 この小堂宇建立が、孫の大春和尚によって祥雲寺の草創とされたのは前述のとおりです。また、大春和尚が正保二年(一六四五)に、堀口村の昌雲寺を当地に移築し、瑞龍山祥雲寺を建立したときに、英元公が開基として迎えられたのも、この小堂宇建立に由来しているわけです。
 理由はともあれ、すでに冥府へ旅立っておられた英元公(慶長十四年=一六〇九=没)を祥雲寺開基に迎えたというところに、大春和尚が祖父をいかに敬慕していたかということが伺い知れ、その人柄を偲ぶことができます。
 開基の墓は本堂の裏手に
 英元公は境野村土着後、多くの功績を残して、堂宇草創十一年後の慶長十四年(一六〇九)七月十一日に没し、祥雲寺に葬られました。この没年は、五街道(日光道・東海道・中山道・甲州街道・奥州街道)に、一里塚が設けられた年にあたります。  墓所は、現在も本堂の裏手に在り、次の銘を残しています。
  (正面) 瑞 竜 祥 雲 居 士 當寺   (側面) 前丹洲 高 橋 英 元 廟 開基 慶長十四年巳酉季 七月十有一日

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