著名な碑・塔・墳墓を訪ねる
祥雲寺境内には、近年屈指の名僧と称えられる「法山達幢老和尚」の碑をはじめとして、数基の碑や塔が建立されています。また、墓地には著名な方々が眠っておられる墳墓も見られます。それらの石造物・墳墓にも、折りを見てぜひ対面
したいものです。
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法山達幢老和尚之碑
この碑は、庫裡会館入口近くの松の木の脇に建立されています。幕末から明治の初期にかけて、祥雲寺に「祥雲寺塾」という寺子屋が開かれていました。そこで学んだ筆子たちが、愛情込めてのすばらしい指導をされた、亡き法山達幢和尚さんへの報恩と感謝の心をもって、浄財を拠出しあい大正元年(一九一二)九月に建立したという、素晴らしい『心の碑』です。
裏面には、筆子人名五十四人、特志者名十人、建碑世話人名五人、計六十九名の氏名が刻まれています。(氏名は省略。碑面
の銘文は、次ページ記載のとおりです。なお達幢和尚については、53ページを参照してください。)
境野保育園記念碑 昭和二十六年に市内私立保育園の先達として開園し、多くのすばらしい足跡を示した後、平成五年三月に閉園した「境野保育園」の光輝の後を残そうと、有志が基金を拠出して建立した記念碑です。
(銘)境野保育園記念碑 昭和26年開園 昭和5年3月31日まで児童福祉法により乳幼児を保育する
初代園長 正和法隆 二代園長 正和孝徳 贈 正和法隆を囲む会参加者一同
平成5年3月吉日 丸橋彦三郎少将之碑 鐘楼の東側に立つ碑が丸橋少将の碑です。
丸橋少将は、慶応三年(一八六七)二月に境野町で生まれています。日清役に出征して負傷しましたが、日露戦役の日本海海戦で信濃丸副長として「敵艦来襲」をいち早く報告し、海戦を勝利に導くもとをつくった功で金鵄勲章を賜っています。
その後、海軍大学教官を務めたのち、大正三〜四年の世界大戦に参戦。退役して帰郷後は、境野村の黌学務委員を勤めました。昭和三年(一九二八)三月九日、六十二歳で病没。
(銘)海軍少将従四位勲二等功三級 丸橋彦三郎之碑 海軍大将 鈴木貫太郎書 (裏面
に少将の略歴がありますが省略) 昭和十一年十一月三日 牧島榮四郎撰 川口市製作人 山崎寅藏
円相多重塔 駐車場の庫裡会館寄りに建てられています。基壇の上に球形の軸部を置き、その上に十五層の円盤様の層がおかれています。高さもありますので、駐車場に入りますと、真っ先に目に飛び込んできてくれます。
(銘)円相多重塔 祈願諸縁吉祥 祈願諸霊冥福 奉納 正和信英 香織 平成六年廿一世晋山記念 医大教授就任記念
九重塔 九重幢は、法山達幢老和尚之碑の隣り(鐘楼寄り)にあります。軸部に四仏を陽刻し、九層の屋根を重ね、最上部に九輪を置いた九重塔で、基礎の裏側に銘文が見られます。
九重塔は、本来は仏舎利や経巻などを納めて霊地を示す塔ですが、昨今はお寺のシンボルとして建立することが増えています。この九重塔は江田家先祖代々の菩提を供養することを目的に建立されています。
(銘)爲先祖代々菩提 昭和五十一年十月 施主 江田龍満 仝りん 祥雲二十世法隆代
開基・高橋丹波守英元及び一族の墳墓
本堂の裏手やや西側の寺域では主要な位置に存在しています。開基とその一族に寺が最大の敬意を表していることが分かります。開基の墳墓は高橋家墓地の西端にあります。(開基墳墓の銘文は、38ページを参照してください。)
歴代住職廟所及び寺族の墳墓 歴代住職や寺族の墳墓は、開基及び高橋一族の墓地のすぐ後ろ隣りにあります。ことに、
歴代住職の墳墓は、 西側から東方へと順に開山・牛室和尚、大春和尚・・・ とお祀りされています。
(歴代住職については、45ページ〜56ページを参照してください。)
新井亀太郎中将の墳墓
新井中将の墳墓は、本堂の西側にあります。かつては境野町の偉人の一人に挙げられていた方(戦前・戦中)で、当境野町の出身です。
明治八年(一八七五)十二月八日生まれ。二十七歳のとき中隊長として日露戦争に従軍し、その戦役での功により金鵄勲章を賜っています。その後、師団長・旅団長などを務められて退官。各地で講演をして歩いていましたが、昭和七年(一九三三)十一月七日に伊勢崎高等女学校で講演中に倒れ、帰らぬ
人となりました。享年五十八歳でした。
葬儀の際には、その死を惜しまれた朝廷から勅使が遣わさたほどでした。遺骨は東京都の多摩墓地葬られましたが、境野の各種団体の懇請によって、祥雲寺に分骨祭祀され現在に至っています。
(銘)厚徳院殿剛心義貫大居士 陸軍中将従三位勲三等功四級新井亀太郎之禅域 (側面
に略歴がありますが省略) 昭和十五年九月 新井福太郎 同 豊太郎 謹立
町田一郎中佐の墳墓 町田中佐の墳墓は、鐘楼の西側やや本堂寄りに祭祀されています。大正十二年(一九二三)一月三十一日に境野町で生まれ、昭和十四年(一九二五)に陸軍予科士官学校に入校。その後、航空士官学校も卒えて陸軍少尉に。第二次世界大戦に突入後は、サイパン攻撃に四度参加しています。
昭和二十年(一九四五。終戦の年)五月二十四日に、特別攻撃隊義烈空挺隊員として沖縄飛行場に向かい、そこで散華しています。享年二十三歳。
(銘)陸軍中佐町田一郎之墓 征空院忠薫毅烈一酬居士 (側面に中佐の略歴がありますが省略) 昭和二十九年十月二十四日 父町田忠一筆之建 二男富美夫文
牧島菊園・要一父子の墳墓 牧島父子の墳墓は、本堂の真うしろにあります。菊園師は慶応元年(一八六五)十二月八日に境野町で誕生。菊園は雅号で本名は榮四郎といいました。桐生の著名な日本画家であり、山水画に多くの傑作を残しています。また、漢詩家としても広く知られた著名人です。
「菊園詩集」「山水百絶」「花木果蔬百絶」などの著書もあります。昭和二十一年(一九四六)五月二十一日に没しています。享年八十二歳。
要一師は菊園の子息です。洋画を学び油絵での肖像画では、県内屈指の画家として知られました。中でも歴代桐生市長肖像画(桐生市役所正庁の間在)、万葉学者・橋本直香肖像画(境野小学校蔵)、境野村二代目村長・野辺三左肖像画(境野公民館蔵、境野小学校長・長島織吉肖像画(境野小学校蔵)などは著名です。
桐生工高校の美術教師としても、その指導面で腕を振るい、多くの画家をも誕生させています。昭和五十一年九月二十九日、八十歳で没しました。
(銘)牧島家之墓 昭和三十二年五月 牧島要一 同 春三 建之
※ 著名墳墓については各種文献に記載されている方々を紹介しました。
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