鳳仙寺本堂[桐生市指定重要文化財〈建造物〉]

構造及び形式  入母屋造平入 銅板葺  桁行9間(19.892メートル)梁間8間(16.161メートル)
建築年代  享保11年(1726)以前
市内唯一の八室構成からなる大規模な方丈形式本堂であり、かつ曹洞宗本堂の伝統的な形式をよく伝える貴重な建造物である。また、市内に残る木造建造物の中で最も古い範囲に入り、最大級の規模であることから、建築的に、また建築技術の面 でも貴重である。

由来及び沿革

本堂は市内では数少ない八室構成で、大規模な曹洞宗本堂の形式をよく伝えている。前方には一間通 りに通り土間と一間通りの広縁がある。建立以来数度の改修が行われ、内外陣境の柱と来迎柱には後世の嵩上げをした改造等がみられる。組物は内外陣境柱筋と来迎柱筋の各柱上に出組を組む。全体に素木を基調とし、内外陣境、須弥壇上部に彩 色の彫物を用いているが、当初からの彩色であるかは不明である。昭和62年の改修で広縁の床板を削り直したが、2種類のあり溝が桟のない状態で張られており、建立より現在まで少なくとも3回の修理が行れている。  現在、外陣と両脇間境に柱はないが、小屋裏調査により、柱を吊束へと改造した痕跡がみられる。これは元禄期とされた旧大雄院本堂と同時代の部分が残されている可能性を示している。内外陣境欄間裏には「彫物一枚 鶴松図 施主 高橋小平次 享保十一年(1726)」ほかの墨書がある。  当寺には由良成繁、国繁父子連名の古文書ほか、幅広い年代の古文書等が残り、火災や災害の記録、言伝えもない。また、元禄6年(1693)「奉願常法幢之事」の文書から、その後幕府より常法幢・別 格地として認められたことがわかり、その30余年後の享保12年(1727)には開基成繁の百五十年忌の大法要が行われている。本山に次ぐ地位 の別格地になったことと、大法要を行うために大改築、明治34年に茅葺から瓦葺に屋根替えをし、小屋組や外陣の天井等が改修された。以上のことから、当本堂は元禄またはそれ以前の遺構を残し、享保11年に改築された本堂と考えられる。  末寺17ヶ寺を持った桐生市における曹洞宗の中心寺院の本堂であり、伝統的な八室構成からなる風格のある貴重な建造物といえる。




内陣天井絵


廊下天井絵



車椅子スロープ



明治時代の本堂


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本堂の建築概要

 桁行9間(19.892メートル)、梁間8間(16.161メートル)からなる市内唯一の八室構成方丈形式(図3)の本堂で大規模な曹洞宗本堂の形式をよく伝えている。さらに前方一間通 りに通り土間と一間通りの広縁がある。向拝は設けず、外観は簡素であり、入母屋造平入としている(写 真1)。柱脚部は正面、側面(土間部分)には玉石の上に栗の土台を敷き、ほかは玉 石の礎石の上に納める。また1/4前後の柱脚は1・2回切詰められていて切石が据えられている。床組は建立以後、何度か改修されており、最近では昭和62年に行われている。軸組は内陣外陣境4本と須弥段両側に直径9寸の丸柱、側柱及び室中、方丈各室に杉の5寸角柱、他は1ヶ所をのぞき欅の5.5寸角柱を使用している。  軒廻りは正面・両側面に絵様肘木、裏面は舟肘木の上に桁を敷き、二軒疎垂木とする(写 真2)。屋根は入母屋造、銅板葺であるが、昭和60年に寄棟造瓦葺から改修された。また、明治34年の銅版画「鳳仙寺の景」では山門、本堂共瓦葺となっているが、昨年行った山門調査でみつかった屋根改修棟札によると、山門は明治21年に茅葺から瓦葺に改修されている。本堂は明治34年に茅葺から瓦葺に改修されたものと考えられる。両側面 と背面に浜縁が廻らされているが、昭和62年の改修工事の際、それまでの浜縁を同寸同型に造り直したものであり、建立時の形状は不明である。  平面は通り土間、広縁、外陣(大間)、内陣、両脇間(上間、下間)、位 牌間、室中、方丈、茶の間の8室と東側と北側の半分に廊下が配されている(図4)。通 り土間には現在、板張りの床とスロープが設けられているが、これらは昭和62年の改修時と平成10年に行われた現住良廣師の晋山行事の際設けたものである。広縁床は欅板張りとなっているが、昭和62年改修で板裏を削り直したが、2種類のあり溝が桟のない状態で張られており、現在まで少なくとも3回の修理が行われている。土間広縁境には入側桁を支える柱を5ヶ所入れ、側柱との間を簡素な虹梁で繋いでいる(写 真3)。  天井は土間上を垂木、野地表しとし、広縁上は板絵の入った格天井となっている。  外陣正面中央には観音開きの桟唐戸を設け、虹梁の上に菱欄間を入れる(写 真4)。その両脇には竪繁組子欄間を入れる。外陣両脇間境の内側には柱がないが、差物もなく、吊束は欅材で柱と同じ形状・寸法となっている。また内法上には壁欄間等はなく、開口部があるが、その周囲には当て板が打ちつけられており、その板幅から推定すると壁ではなく、なんらかの欄間が入っていたものと思われる。内外陣境の丸柱は中央2本が欅材で、両端の2本は杉材を使用しているが、経年の相違が見られる。また中央2本の丸柱は台輪の上に欅の丸柱が足され、その上に年代の新しい台輪をのせ、出組を組んでいる(写 真5)。出組の間は中備に簡素な蟇股を組み入れ、裏側に板をはめている(写 真6)。内外陣境には3枚の彫刻欄間があるが、彫刻師の銘はなく、彩色も施されていない。裏面 には「享保十一年」の打札が各々の欄間彫刻に打たれている(写真7)。天井は板絵の鏡板を入れた格天井となっている。内陣は松板張であったが、昭和62年の改修で欅板張に改修されている。天井は龍の描かれた格天井となっていて、「青山敬写 」の墨書があり、群馬県月夜野出身の林青山(弘化4年 1847生)と言われている(写 真8)。須弥壇両側の丸柱は欅材であるが、先代住職の代に朱色に塗られている。この丸柱も虹梁の高さ分嵩上げされており、頂部に台輪をのせ、出組を組んでいる(写 真9)。中備には出組の間いっぱいに鳳凰の彫刻がはめ込まれている(写真10)。厨子の両脇の花頭枠をもった部分は前住の代に付加されたものであり、それ以前の形状は不明である。東脇間、位 牌間、茶の間は竿縁天井で梁間方向の小屋梁が化粧タイコ丸太として露出している。西脇間は外陣側半分が梁を境に竿縁天井、妻側半分が垂木、野地表しとなっている(写 真11)。東脇間、位牌間、茶の間の廻縁と竿縁は黒塗であるが、西脇間は木地仕上となっていて年代の相違が見られる(写 真12)。また西脇間位牌間境は差物が入り、欅材の吊束を設けている。この差物は西脇間の長押を一部切り取り、差し込まれている事から西脇間が造られた後付加されたものである(写 真13)。室中には吊床があるが、本来は普通の床の間であった。室中、方丈境には筬欄間が入っているが、これは昭和62年の改修で付加したものである。天井は室中、方丈両室共黒塗の竿縁天井となっている(写 真14)。 5.調査結果 当本堂は幾度かの改修が行われており、年代が判明している改修は昭和60年代、昭和20年代、明治34年、そして開基由良成繁の百五十年忌の大法要が行われた前年の享保11年(1726)である。  年代の判明していた改修内容は昭和60年代が床組と敷居及び室中、方丈の欄間、側面 の建具、そして屋根の形状、材質変更、昭和20年以後行われた須弥壇脇丸柱の塗装、内陣厨子両袖の仏壇、明治34年の屋根葺き替えである。  小屋裏調査では、小屋束、小屋梁が一部組み直されていることが判明した(写 真15・16)。小屋組みは昭和60年代及び20年代では行っていないので明治34年以前ということになる。茅葺から瓦葺に葺き替えたときに屋根勾配を変更すると共に小屋組を直したと思われる。組み直された小屋材は再利用されているので、小屋材は明治34年以前となる。また側柱と絵様肘木、舟肘木との損傷状態からみると肘木が新しく、小屋組みの工事の際,付け替えられたと考えられる(写 真17)。側柱については肘木より古いので明治34年以前と考えられる。  内部調査では、まず、広縁床板を検証してみると、昭和62年修理の際、あり桟がはずれた状態であった。昭和20年代には修理をしていないので、明治34年の改修時にあり桟なしで床工事を行っている。加工の異なるあり溝が2本あるので、1本は床板が使用された当初の溝で、残りが明治34年以前に行われた修理の際彫られた溝となる。柱については、側柱と内部の柱の材質と寸法、面 幅が異なり、年代が同時期とは考えにくい。また内外陣境の列に立つ欅角柱は長押上1尺5寸くらいのところで継がれ再利用している(写 真18)。外陣両脇間境にある欅材の吊束は小屋梁との仕口でほぞ差し、丸込み栓打となっているが、他の仕口で用いている込み栓は全て角込み栓を使用しており、丸込み栓は新しく、本来は込み栓がなかったと思われる。これは建てられた時点では柱であったが、吊材として使用するために直された加工と思われる。また鴨居裏には丸鋼で補強され、吊束が下がらないよう手が加えられている。本堂建立時には外陣・脇間・位 牌間脇間境には脇間茶の間境と同様に一間ごとに欅の柱が立っていたと思われる。天井では格天井と出組の取り合いに不自然なところがあり、同時期とは考えられない)。格天井が明治34年とすると出組みはそれ以前となる。また内外陣境の出組と須弥壇上部の出組 は、肘木の様式、絵様が異なり年代が異なる。よって格天井と出組は3つの年代に分かれることとなる。内外陣境にある中備の蟇股は、末寺である長泉寺(享保3年 1718)や当寺の山門(宝永元年 1704)のそれと比べて簡素であり、長泉寺本堂建立と享保11年の改修を行った住職繁山嶺苗和尚が同一人物であることを考えると、享保11年以前の部分と思われる。 以上の点から東京大学工学部建築学科藤井恵介先生がご教授下さった「一間おきに柱を建てる本堂は梁間をとばす技術が未熟であった元禄またはそれ以前の本堂と考えられる。」とのことばから、当本堂はそれに該当する部分が残っていると思われる。また享保12年(1727)の由良成繁公150年忌は前記「忍山湯旅の記」に記されているほどの大法要であり、また「常法幢別 格地」となった元禄期(1688〜1704)からあまり年代が開いていないので、現在の欄間を設けた享保11年頃に何らかの大改修が行われたと思われる。「忍山湯旅の記」の中に「本堂大い也」と記されている事から安永4年(1775)にはすでに八室構成の大本堂となっている。  以上のことから当本堂は元禄またはそれ以前の遺構を残し、享保11年に改築された本堂と考えるのが妥当であろう。

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