一度として火災の難に逢うことなく、また風水害などの災害にも逢う事なく、実に四世紀半になんなんとする豊かな歴史を築き上げている鳳仙寺-----。 それだけに鳳仙寺には文化財・寺宝が驚くほど豊富に所蔵されていて、質量 ともに県内屈指を誇ります。

 それにしても、その大量の資料を目のあたりにしますと、「よくぞ、これほどの量 を現代へ遺してくださったもの」と感嘆させられます。歴代住職さんたちの情熱が伝わって来ます。

 すでに桐生市史編纂の際

に、鳳仙寺資料の多くが取り上げられ、紹介されていますように、鳳仙寺には、桐生市はもちろん、群馬県の中世以降の歴史ををひもとくうえには欠かせない、貴重な資料が大切に保存・管理されているのです。

 紙数の関係で、その大量の文化財・寺宝のすべてをここに掲載することはできませんが、その一部を紹介し、そのすばらしい資料を垣間見ることにします。


文化財

 保存されている資料は、すべて文化財ではありますが、ここでは桐生市指定重要文化財および史跡に的をしぼり、まとめてみることにします。

 桐生市指定重要文化財および史跡は、平成14年度末現在で、本堂、山門(山門建立化粧を含みます。)、輪蔵、梵鐘(以上が市重文指定)、由良成繁公の墓(市史跡指定)となっています。他県、他都市の指定状況からしますと、今後、さらに指定となる資料数は増加するものと思われます。


市重文 鳳仙寺本堂

平成十四年(二千二年)三月十二日に重文指定されたもので、構造及び形式は、入母屋造平入 銅板葺  桁行9間(19.892メートル)梁間8間(16.161メートル) 5.建築年代  享保11年(1726)以前
 指定理由  市内唯一の八室構成からなる大規模な方丈形式本堂であり、かつ曹洞宗本堂の伝統的な形式をよく伝える貴重な建造物である。

また、市内に残る木造建造物の中で最も古い範囲に入り、最大級の規模であることから、建築的に、また建築技術の面 でも貴重である。


市重文 鳳仙寺山門(附・山門建立化簿)

 昭和六十三年(一九八八)十月五日に重文指定されたもので、間口8メートル、奥行き4・4メートルの三間一戸・入母屋造の楼門です。建立は宝永元年(一七〇四)八月。

 山門は、格調の高い禅宗様式の建造物で、均整のよくとれた、雄大で豪華で、優れた建築意匠構成を示します。また、大きさにおいても、桐生市域では類を見ない規模を誇って

います。正面の両脇間に金剛柵を設けて、増長天と持国天(ともに寺宝ですので、後述します。)を安置し、主柱四本、控え柱八本があります。そのいずれもが丸柱使用となっています。それら柱の多くの柱脚、柱頭には禅宗様相が示されています。

 二階の扉は、正面が四枚の観音開きの唐戸で、一部にはすかし彫りが見られます。また、擬宝珠高欄が巡らされていますが、それの四隅の擬宝珠柱の頭部には、禅宗様式の特徴である唐様蓮頭が見られます。この他に台輪・皿戸・詰組・隅木にも禅宗様相が見られます。

 蟇股は計十二設けられ、それぞれに精巧な十二支が配されています。中でも通 路上の子・巳・午・亥の蟇股には、すかし彫りが施されていますし、両脇間冠木上の篭彫雲水竜は見事です。

 『附』の「山門建立化粧」は、宝永元年(一七〇四)、第十一世・曲外嶺松和尚の代に、山門建立のための資金を門中寺院や各村々から募った記録で、当時の建築費の概要を知る上での貴重な資料です。


市重文 鳳仙寺輪蔵

 昭和五十四年(一九七九)八月十日に重文指定されています。輪蔵は、白壁塗りの鞘堂の中に納められており、中心の柱を軸に八面 の経架が設置されていて、手押しで自在に回転させることができる構造になっています。

 八面の経架のうち、中央には双林大士を安置し、残りの七面に延宝七年(一六七九)版行の鉄眼版一切経六千九百五十六巻が蔵されています。

 経架の前面周囲には椽が張られ、高欄を巡らし、宝珠柱の頭部には唐様の逆蓮頭が用いられています。今日でも軸柱と差肘木との仕口に弛緩が見られず、スムーズに回転させることができます。この輪蔵の製作年代は伝・天明三年(一七八三)とされています。

 


《 鉄眼版一切経 》

 一切経とは漢訳された仏典の集大成のことで、経(仏の説法)、律(教徒の生活規律)、論(教義についての学者たちの記述)の三部門から成っています。

  一切経は、江戸初期に天海大僧正が、幕府の命により天海版を印刻しましたが、木活字を使ったため、ほとんど普及しませんでした。それを鉄眼和尚が勘案し、 求めに応じて自由に印刷ができる、 固定木版を用いた利用価値の高い『鉄眼版一切経』を版行しました。この版木は、現在、国の重要文化財となって、万福寺宝蔵院収蔵庫に大切に保管されています。しかも、この版木での一切経が現在も敬虔に刷られていて、国内外に刊行されているといいます。

  《 鉄 眼 和 尚 》 鉄眼和尚は、寛永七年(一六三〇)、肥後国(熊本県)益城郡の佐伯家に生まれました。七歳のときには、すでに観無量 寿経を暗唱したと言われます。十七歳で故郷を離れ、西吟師、隠元師、木庵師らに師事して成長しました。その鉄眼和尚に一切経刻版の火が灯ったのは、寛文八年(一六六八)、難波(大阪府)月光院での講話で、大蔵経刻版の志を語ったところ、感動した観音寺の妙宇道尼が、白金一千両を喜捨したことによると言われます。

 この大事業遂行のための資金を得るために行った鉄眼和尚の講経は、さらに計十七回、小講演は数十回に及んだと言います。そして、足を棒にして全国を行脚し、喜捨を募った苦節十七年の旅の末、ついに一切経を完成させたのです。その我が国の文化に大きな影響を及ぼした『鉄眼版一切経』が、いま鳳仙寺輪蔵内に在るのです。


 《 400字詰め原稿用紙のルーツは鳳仙寺にあり 》

「夏休みの宿題の作文は、原稿用紙三枚だそ」と先生が言います。
こんなとき「ええーっどのくらいの文字数になるの?」なんて悩むことはありません。
常識的に原稿用紙一枚はと言えば四百字。だから三枚と言われたら千二百字以内で書けばいいのです。
ところで、原稿用紙一枚の文字数が四百字となった元を作ったのは、今から三百年程前に大活躍したお坊さま、鉄眼さまです。
鉄眼さまは、中国から伝えられた「大蔵経」という六千巻以上に及ぶ仏教教典を後世に残しておくため、木版印刷で修復する事を決意して、資金集めのため全国各地を托鉢行脚。
数々の困難を乗り越えて彫った木版は何と六万枚・・10数年の年月をかけてついに完成したのです。
木版を彫るにあたって、鉄眼さまは、一枚の木版に入れる文字数を、タテ二十字でヨコ二十行、つまり一枚の版木に四百字を入れることに決めたのです。
ここに原稿用紙一枚四百字のルーツがあるのです。ちなみに鉄眼さまが完成させた大蔵経は、七千三百三十四巻にもなりました。
今も「鉄眼版大蔵経」として鳳仙寺に残っています。山門の下の、今回修復完成した輪蔵、蔵の中に大切に保存されています。  


市重文 鳳仙寺梵鐘

 鳳仙寺梵鐘は、寛永十八年(一六四一)鋳造という桐生市内最古の梵鐘で、総高117センチメートルあります。重文指定は平成元年十一月十三日。

 竜頭は蒲牢で、笠形は低く、乳は四段四列の写実的な茸状をしています。そして四区全面 に別記のような銘が陰刻されています。

 袈裟襷は正確で、細部は整然と仕上げられており、撞座は陽鋳と陰刻の複合技法が用いられていて、満開の蓮華紋が表現されています。下帯には蓮華唐草紋が紐線で陽鋳されています。 乳の配列や形状、袈裟襷の細部、撞座高の技法、下帯の文様、駒爪などなど、梵鐘全体に古式の遺風が見られます。姿形も優美で鋳造技術も優れています。保存状態も良好で、随所に江戸時代初期の特徴を遺しています。

 梵鐘銘は、次のとおりです。

東山道上野州山田郡桐生町  久方村桐生山鳳仙寺現住  儀拈牛把代仁

寄進之鑪是頌日  体固心虚状尚清  声驚世界號花鯨  群類覚睡歸安楽

廣闊娑婆行法合

 

奉納鐘一柄室廣壽陽僧  為菩提銘銅生各残末代者也  炭助成

村上八兵衛尉長之  鈎鉄合力  金子助左衛門忠直  鑄立肝煎

長沢彦右衛門正清

 

鐘楼建立為慈母加助祐施主  藤原朝臣桐生又兵衛尉正吉

下野国佐野天明住人鑄師大工  江田讃岐守安重  藤原朝臣  同 内蔵丞行次

門連沙門  貮人者手脚廻故棄此名  牛天沙門  維寛永十八年辛巳年七月吉辰

直道敬白



市史跡 鳳仙寺由良成繁公の墓

天正元年(一五七三)三月十二日、桐生氏との合戦に勝利をし、桐生の新領主となった由良信濃守成繁公の墓(五輪塔)で、昭和四十六年(一九七一)二月六日に史跡指定を受けています。


 

威徳の滝

鳳仙寺石門より参道を200m歩くと右側にあります。中段には不動明王が安置してあります。
夏場には滝を浴びる信者の方も時々見受けられます。


(作者:林青山)

天井の絵画

青山の絵は、本堂の内陣、大間、廊下の格天井に圃かれている。内陣には大九格面、小十六券面があり、大券面には龍が両かれ、側面に「青山敬寫 印」の落款がある。小格面には十二支などの花鳥獣が圃かれている。大間には四十二面すべてに花鳥獣が両かれているが、天蓋、縁幡が吊るされていて見えにくい部分かおる。
これに対し廊下の格天井は四行二十九列の面に、人物(七福神その他)が十八面、花鳥獣が九十八面圃かれている。人物は七福神以外はさまざまで、花鳥獣の図もそれぞれでる。左隅に駕寵が、中央に額が飾られていて、見えにくい部分もある。


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